神社の石碑に「式内社」と刻まれていることがあります。古そうで格式も高そうですが、具体的には何を意味するのでしょうか。答えを探すと、神社の歴史は信仰だけでなく、古代の行政、記録、物資の配分の歴史につながります。
神祇官は、神々の祭祀を扱う役所
律令国家では、神々に関わる祭祀を神祇官が担いました。太政官とともに二官の一つに位置づけられ、祭祀の実施や地方の神社に関わる管理などを行います。[1]
ただし、組織図で二つ並んでいることから、実際の規模や権限が完全に同じだったと考えてはいけません。國學院大學の解説も、官人の位や組織の大きさ、行政上の関係に差があったことを指摘しています。[1]
制度を読むときには、理念上の位置づけと、現実の運営を分ける必要があるのです。これは神社史に限らず、古代の政治制度を学ぶときにも役立つ視点です。
官社とは、国家の祭祀体系に入る神社
官社は、国家の制度に位置づけられ、祭りの際の幣帛などを受ける神社です。幣帛とは神に奉る供え物のことで、布なども用いられました。
供え物をどこから、誰が、どの神社へ届けるかは、信仰と行政が接する具体的な問題です。遠くの神社から都へ出向く負担などを背景に、神祇官から受ける官幣社と、地方の国司から受ける国幣社という区分が整えられました。[2]
ここでいう官幣社・国幣社と、明治以降の同名の区分は、そのまま同じ制度ではありません。似た名称が後世に用いられても、支える国家の仕組みや時代背景は別に確認します。
『延喜式』は神社だけの本ではない
『延喜式』は、律令や補足法令を実施するための細かな規則を集めた書物です。905年に編纂が始まり、927年に完成・進上され、967年に施行されました。[3]
全体は五十巻で、神祇官関係の巻のほか、さまざまな役所の仕事を扱います。神社の由緒に頻繁に登場するため、全国神社名鑑のような本を想像しがちですが、国家運営の手順を定める大きな体系の一部なのです。
祭りで使う品の種類や量、儀礼の手順まで記す規定からは、祭祀を実施するために必要な実務が見えてきます。神に祈ることと、そのための布や食物を準備することは、制度のなかで結びついていました。
式内社と神名帳の読み方
『延喜式』の巻九・十にある神名帳に記載された神社が、式内社と呼ばれます。一般に2861社、3132座と数えられ、「社」と祀られる神の「座」の数は同じではありません。[2][3]
名があることは、編纂当時の国家的な祭祀体系との関係を考える重要な手がかりです。一方、載っていない神社や祈りの場所が、当時まったく存在しなかったとまではいえません。この名簿は、あらゆる人々の信仰を漏れなく調べた調査票ではないからです。
また、古い名称を現在のどの神社に対応させるかは、所在地、社名の変化、由緒、地域史料などを調べる別の問題です。名前が似ているという理由だけで、千年前から同じ場所に同じ形で続くと決めないようにします。
国家の制度から、地域の歴史へ
国家の祭祀制度は、一度完成して永久に固定されたわけではありません。中央政府の力や地方の社会が変わるにつれ、神社との関係も変化します。[4]
式内社という呼称が現在も大切にされる一方で、神社の日々の維持や祭りは、それぞれの地域の歴史の中で続いてきました。石碑の肩書きを読むことは、その神社のすべてを格付けすることではなく、過去のある制度とのつながりを知ることなのです。
よくある疑問
式内社は927年に創建された神社ですか?
違います。927年は『延喜式』が完成・進上された年で、掲載された各神社の創建年ではありません。[3]
神名帳にない神社は価値が低いのですか?
掲載は特定の時代の制度上の位置づけを示します。信仰や文化の価値を一律に決める現代のランキングではありません。
参考資料
[1] 國學院大學 Encyclopedia of Shinto「Ritsuryō Jingikan」
[2] 同「Shikinaisha」
[3] 同「Engishiki」
資料確認日:2026年10月6日。編纂・施行・創建の年代を区別しています。
連載を読む
「神社と日本史」第10回/全18回。
連載の入口:第1回 神社とは何か
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