破壊は前衛を生んだ:二つの世界大戦が美術を作り替えた

塹壕の泥からダダが生まれ、ゲルニカの空爆が20世紀最大の絵画を生み、亡命者たちが美術の首都をパリからニューヨークへ移した。二つの世界大戦は、美術にとって単なる背景ではない。近代美術の歴史そのものを書き換えた当事者である。

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破壊は前衛を生んだ:二つの世界大戦が美術を作り替えた

20世紀美術の年表を開くと、奇妙なことに気づく。ダダ、シュルレアリスム、抽象表現主義——教科書に並ぶ運動の転換点が、ことごとく二つの世界大戦の前後に集中しているのだ。

これは偶然ではない。第一次世界大戦(1914-18年)は、産業と科学がもたらした進歩への信頼を塹壕の中で打ち砕き、第二次世界大戦(1939-45年)は、ホロコーストと原爆によって「人間」への信頼そのものを揺るがした。芸術家たちはその廃墟で、美術をゼロから定義し直すことを強いられる。

戦争は美術を破壊した。同時に、戦争は美術を作り替えた。20世紀の前衛芸術史は、二つの大戦への応答の歴史として読むことができる。

機械への熱狂と幻滅——第一次世界大戦

大戦前夜のヨーロッパ前衛は、機械文明に熱狂していた。イタリアの未来派は速度と機械とダイナミズムを賛美し、戦争を「世界の衛生学」とまで呼んだ。しかし現実の戦争は、機関銃と毒ガスによる大量死だった。未来派の中心的な彫刻家ボッチョーニ自身、従軍中の事故で命を落とす。

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1916年、戦火を逃れた若者たちが中立国スイスのチューリッヒに集まり、キャバレー・ヴォルテールでダダを開始する。意味を成さない音の詩、偶然に任せたコラージュ、あらゆる権威への嘲笑。彼らにとって、理性が大量殺戮に行き着いたのなら、理性に基づく芸術もまた欺瞞だった。マルセル・デュシャンが便器に署名した「泉」(1917年)が突きつけた「これは芸術か」という問いも、この時代の空気と切り離せない。

戦後のドイツでは、従軍経験を持つオットー・ディクスやジョルジュ・グロスが、傷痍軍人と戦争成金の街をえぐるように描いた。英雄的な戦争画の伝統は、ここで決定的に信用を失う。一方パリでは、ダダの破壊を引き継ぎながら、夢と無意識に新しい現実を求めるシュルレアリスムが1924年に旗揚げされる。戦争が破壊した「現実」の代わりを、芸術は心の内側に探し始めていた。

「退廃芸術」——前衛を敵とした国家

1930年代、戦間期のドイツで前衛は国家の敵となる。ナチス政権は表現主義や抽象絵画を「退廃芸術」と呼び、美術館から約2万点の作品を没収した。1937年にミュンヘンで開かれた「退廃芸術展」は、モダンアートを嘲笑するために作品を乱雑に並べた見世物であり、同年の「大ドイツ芸術展」が示す古典的で健康的な公式美術と対をなしていた。

同じ1937年、パリ万博のスペイン館には一枚の巨大な壁画が掲げられる。ドイツ空軍によるスペインの小都市無差別爆撃を受けて、ピカソが描いた「ゲルニカ」である。モノクロームの画面に叫ぶ馬と母子を配したこの絵は、特定の戦場を超えて、暴力そのものへの抗議の図像として20世紀の記憶に刻まれた。

芸術を管理しようとする国家と、それに抗う芸術。この構図はソ連でも進行しており、前衛的なロシア構成主義は社会主義リアリズムによって封じられていった。全体主義の時代、様式の選択はそのまま政治だった。

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亡命者たちが移した「美術の首都」

ナチスの迫害は、結果として美術の地図を塗り替えた。1933年、バウハウスが閉鎖に追い込まれ、教授だったモホイ=ナジやアルバースはアメリカへ渡って教育を再建する。大戦が始まると、モンドリアン、シャガール、デュシャン、エルンスト、ブルトンら、ヨーロッパの主要な芸術家が次々とニューヨークへ亡命した。

若いアメリカの画家たちは、亡命者たちが持ち込んだシュルレアリスムの自動筆記や抽象の理念を間近に吸収する。そこから戦後、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングやマーク・ロスコの色面に代表される抽象表現主義が立ち上がり、美術の中心はパリからニューヨークへ移った。戦争による人の移動が、美術史の重心そのものを動かしたのである。

日本——戦争画という重い遺産

日本の美術も、戦争の外にはいられなかった。日中戦争から太平洋戦争にかけて、多くの画家が軍の要請で戦争記録画を描く。パリで猫と裸婦を描いていた藤田嗣治は、「アッツ島玉砕」のような凄惨な群像画を描き、戦後にその戦争協力への非難を一身に受けてフランスへ去った。芸術家の戦争責任という問いは、日本美術史に今も残る宿題である。

そして広島と長崎。丸木位里・俊夫妻は、被爆直後の広島に入った経験から、30年以上をかけて「原爆の図」の連作を描き続けた。国家の記録画とは別の場所で、犠牲者の側から戦争を描き継ぐ仕事だった。

廃墟から問い直される「人間」

1945年以降の美術は、「これほどの出来事のあとで、芸術に何ができるのか」という問いを背負って再出発する。ジャコメッティの細く削がれた人体、フランシス・ベーコンの歪んだ肉体、日本の具体美術協会による身体を張った実験。戦後美術の多様な展開は、いずれも壊れた人間像の作り直しという課題への応答だった。

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二つの大戦が美術に残した最大の遺産は、特定の様式ではない。芸術は無力かもしれないという自覚と、それでも描くことをやめないという意志。その緊張の中でこそ、20世紀美術の最も強い作品は生まれた。戦争と美術の歴史は、平和な時代の私たちが作品の前に立つとき、その画面の下に埋まっている地層なのである。

よくある質問(FAQ)

ダダはなぜ「反芸術」と呼ばれるのですか?

第一次世界大戦の大量死を招いた近代文明とその価値観への抗議として、美や意味や技巧といった芸術の前提そのものを否定したからです。偶然性、ナンセンス、既製品の使用などの手法は、後のシュルレアリスムや現代美術に大きな影響を与えました。

「ゲルニカ」は何を描いた作品ですか?

1937年、スペイン内戦中にドイツ空軍が行ったバスク地方の町ゲルニカへの無差別爆撃を主題に、ピカソがパリ万博スペイン館のために描いた縦約3.5メートル、横約7.8メートルの大作です。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターが所蔵しています。

退廃芸術展とは何ですか?

1937年にナチス・ドイツがミュンヘンで開いた展覧会で、表現主義や抽象などのモダンアートを「退廃」として嘲笑するために、没収した作品を意図的に貶める形で展示しました。皮肉にも200万人を超える観客を集め、全体主義による芸術弾圧の象徴として記憶されています。

なぜ戦後、美術の中心はニューヨークに移ったのですか?

ナチスの迫害と大戦により、モンドリアン、デュシャン、シュルレアリストたちなどヨーロッパの主要作家が相次いでアメリカへ亡命し、その理念を若いアメリカの画家たちが吸収したためです。そこから生まれた抽象表現主義が国際的に評価され、ニューヨークが新しい美術の中心地となりました。

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日本の戦争記録画は今どこにあるのですか?

藤田嗣治の「アッツ島玉砕」を含む戦争記録画153点は、戦後アメリカに接収された後、無期限貸与の形で日本へ返還され、東京国立近代美術館が保管しています。一部は常設展示で順次公開されており、戦争と美術の関係を考える貴重な資料になっています。

監修者: 田村 祐大

この記事の監修者

田村 祐大

NACK / 企画・編集

岡山県出身、京都在住、時々東京。京都芸術大学芸術学部卒業。暗号資産・Web3領域のプロダクトデザインに約7年間従事した後、NACKを始動。

アートを入口に、文化・経済・社会・テクノロジーの関係を読み解く「NACK Journal / Times」を企画・編集している。

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