初代ローマ皇帝アウグストゥスは、「レンガの都を受け継ぎ、大理石の都を残した」と語ったと伝えられます。注目すべきは、この言葉が都市の機能ではなく「見た目」を誇っている点です。上下水道や道路網の整備でも知られるローマ帝国の支配者が、最終的に自慢したのは都市の材質、すなわちイメージでした。都市が権力の顔であることを、彼は正確に理解していたのです。
都市計画家ケヴィン・リンチは20世紀半ば、人々が都市をどう記憶しているかを調査し、都市には「イメージしやすさ」という性質があると論じました。人は道路網の正確な地図ではなく、目印や境界や結節点で編まれた心の中の絵で都市を把握しています。つまり都市は、石とコンクリートの集合であると同時に、住民と訪問者の頭の中に建てられたイメージの構築物なのです。都市史をこの視点から読み直すと、広場、看板、記念碑という三つの装置が、時代ごとに「都市らしさ」を製造してきたことが見えてきます。
広場という舞台——都市の中心は空白だった
古代ギリシャの都市国家の中心にはアゴラと呼ばれる広場があり、市場、裁判、政治討論がそこで行われました。ローマのフォルム(公共広場)も同様に、神殿と記念碑に囲まれた都市の心臓部でした。興味深いのは、都市の中心が巨大な建物ではなく「何もない空間」だったことです。空白だからこそ人が集まり、集まった人々の姿そのものが都市の光景になります。広場とは、市民が互いを見る/見られるための舞台装置でした。
中世ヨーロッパの都市では、大聖堂前の広場と市場広場が都市生活の核となり、シエナのカンポ広場のように、競馬祭の日には都市全体の熱狂を受け止める器になりました。ルネサンス以降は、広場は権力の演出空間としても洗練されていきます。ミケランジェロが設計したローマのカンピドリオ広場は、床の幾何学文様と建物の配置によって、訪れる者の視線と動線を計算し尽くした「歩ける絵画」です。広場の形は、その都市が誰のものかを語ります。日本の都市には西洋型の広場が少ないと言われますが、寺社の境内や橋のたもと、辻や河原が人の集まる開かれた場として同じ役割を果たしてきました。形式は違っても、都市には必ず「みんなの空白」が必要なのであり、この原理は現代の駅前広場や再開発のオープンスペースにもそのまま生きています。
PRデザインや表現を自分の手で試したい方へ:Adobe Creative Cloud江戸の看板と名所絵——商業が都市の顔を作る
権力だけが都市のイメージを作るのではありません。18世紀、人口百万を数えたとされる江戸では、商業が都市の視覚文化を牽引しました。日本橋や駿河町の通りには大店の暖簾と看板が連なり、店の信用はまず看板の意匠で示されました。看板は文字の読めない人にも商品が分かるよう、櫛の形、眼鏡の形といった立体造形を競い、通りそのものが巨大な陳列棚と化しました。現代の繁華街のサイン群の原型が、ここにあります。
さらに江戸は、都市イメージが複製されて流通する時代を開きました。歌川広重の名所江戸百景に代表される名所絵は、実際の景色を誇張や編集を交えて描き、庶民は絵を通して「江戸らしい風景」を学習しました。人々は名所絵で見た構図を確かめるように名所を訪れます。実景がイメージを作るのではなく、イメージが実景の見方を決める——現代の観光写真やSNSの構図の反復と同じ逆転が、すでに江戸で起きていたのです。
オスマンのパリ大改造——都市そのものをデザインする
19世紀半ば、ナポレオン3世のもとでセーヌ県知事オスマンが指揮したパリ大改造は、都市イメージの人為的製造としては史上最大級の実験でした。中世以来の入り組んだ街区は取り壊され、直線の大通り(ブールバール)が都市を貫き、沿道には高さと意匠をそろえた石造りの建物が並びました。オペラ座へ向かう大通りの遠近感は、都市を一枚の絵画のように構図化します。今日、世界中の人が思い浮かべる「パリらしさ」は、この時期に設計された人工物です。
大改造は批判も浴びました。追い立てられた住民、消えた路地、均質化への反発です。しかし同時に、ガス灯に照らされた大通りとカフェのテラスは、都市を歩いて眺めるという近代的な楽しみを生み、印象派の画家たちは雨のブールバールや夜のガス灯を繰り返し描きました。都市改造が新しい風景を作り、絵画がその風景を都市の自画像として定着させます。都市とイメージの共犯関係が、ここで完成したと言ってよいでしょう。
光る都市——ネオンサインとスクリーンの世紀
20世紀、都市の顔は昼から夜へ拡張されました。ニューヨークのタイムズスクエアや東京の新宿・渋谷では、ネオンサインと電光広告が夜空を塗り替え、闇の中に浮かぶ光の文字こそが都市の風景になりました。建築家ロバート・ヴェンチューリらは著書でラスベガスの看板だらけの大通りを分析し、建物本体よりも看板が主役になる都市のあり方を、批判ではなく観察の対象として示しました。高尚な建築の理論が無視してきた商業の光を、都市の言語として読んだのです。
PR移動中や作業中に本を聴きたい方へ:AmazonのオーディオブックAudibleこの光の都市イメージは、映画やアニメーションを経由して世界に輸出されました。雨に濡れた夜の繁華街、漢字とネオンの重なり——SF映画が描く未来都市の風景に東京や香港の面影が採用されてきたことは、都市イメージがメディアを通じて増殖する好例です。現代では建物の壁面そのものが巨大スクリーンとなり、都市は静止した石の集合から、動く映像の集合へと変わりつつあります。
一方で、光をあえて抑えることで都市イメージを作る道もあります。京都は景観政策によって屋外広告の色彩や大きさを厳しく制限しており、全国どこでも同じ色で光るチェーン店の看板が、京都では落ち着いた色調に改められている例が知られています。派手さを競う都市と、抑制を統一の美学にする都市です。看板のあり方ひとつをとっても、都市は「自分がどう見られたいか」の思想を表明しているのです。
記念碑の政治——建てられる像、倒される像
都市イメージの三つ目の装置が記念碑です。戦勝記念柱、英雄の騎馬像、凱旋門——記念碑は「この都市が何を記憶すべきか」を石で宣言します。だからこそ、政治が変われば記念碑は攻撃されます。1871年のパリ・コミューンでは、ナポレオンの戦勝を記念するヴァンドーム広場の円柱が民衆の手で引き倒されました。近年も世界各地で、植民地支配や奴隷貿易に関わった人物の像の撤去をめぐる論争が続いています。像を建てる自由と倒す自由のせめぎ合いは、都市が誰の記憶を飾る場なのかという問いそのものです。
20世紀後半には、記念碑の形式そのものを問い直す動きも現れました。ワシントンのベトナム戦争戦没者慰霊碑は、若き建築家マヤ・リンの設計により、英雄の彫像ではなく、戦没者の名前を刻んだ黒い石の壁を大地に沈めるように配しました。訪れる者は磨かれた石に映る自分の姿と死者の名前を同時に見ることになります。勝利を誇示する垂直の記念碑から、喪失を共有する水平の記念碑へ。都市が記憶を扱う語彙は、いまも更新され続けています。
都市をイメージとして歩くための4つの視点
- いつもの街で「この街らしさ」を感じる場所を三つ挙げてみます。それが広場型か、看板型か、記念碑型かを考えると、街の性格が見えてきます。
- 交差点や駅前で、視界に入る文字と広告の数を数えてみます。都市がどれほど「読む空間」であるかに気づくはずです。
- 古い絵葉書や名所絵と現在の同じ場所を見比べます。変わったものと変わらないものの差に、都市が守ってきたイメージの核が現れます。
- 街の銅像や碑文の前で立ち止まり、誰が、いつ、何のために建てたのかを読みます。都市の記憶の編集方針が透けて見えます。
大理石を誇った皇帝から、スクリーンに覆われた現代の交差点まで、都市は一貫して「どう見られるか」を競ってきました。都市史とは、権力者と商人と無数の市民が世代を超えて描き継いできた、人類最大の共同作品としてのイメージの歴史です。次に街を歩くとき、足元の広場と頭上の看板が、何百年分の意図の積層であることを思い出してみてほしいです。
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