AIの中に、もう一人の僕がいる。——自分の感性を、外から見るということ

1.僕がかっこいいと思うものが、向こうから出てくる
AIと一緒にものを作っていると、不思議な気持ちになる。
僕が考えていたことが、文章になって返ってくる。頭の中にぼんやりあった空気が、画像になる。音楽でも、言葉を渡して、出てきたものを聴いて、違うところを伝えていくと、自分がかっこいいと思う方向へ近づいていく。
最初は、便利な道具を使っている感覚だった。でも、今は少し違う。
「これ、僕じゃなくても作れてしまうんじゃないか」
そう思う瞬間がある。しかも、嫌な気持ちだけではない。面白い。自分の中にあったはずの好みや考え方が、外から届くことに、驚いている。
ある動画に感銘を受けて、あらためて考えた。僕にとってAIの大きさは、作業が速くなることだけではない。自分に似た判断や表現を、客観的に見られることなのかもしれない。
僕がかっこいいと思うものが、全部向こうの中にもあるように感じる。その感覚を、今のうちに残しておきたい。
2.僕の中では、境目が近づいている
僕はつい、この感覚に「シンギュラリティ」という言葉を使いたくなる。
ただ、技術的特異点という大きな議論と、僕個人の制作体験は同じではない。ここで書きたいのは、AIが人類を超えたという判定でも、いつ超えるかという予測でもない。
自分が得意だと思っていたこと、自分らしいと思っていたことと、AIが出してくるものの境目が、思った以上に近づいている。その実感だ。
僕が使っている範囲では、GPTとの対話で特に強く感じる。これはモデル全体の性能順位をつけたいのではなく、僕が渡してきた言葉と、やり取りの積み重ねがあるからだと思う。
「もっと僕らしく」「そこは違う」「モチーフはそのままで、文字だけ強くしたい」。そうやって判断を返していくと、次の提案が変わる。
僕が全部を説明し終える前に、自分でも納得する言葉が返ってくることがある。そこで気になるのが、「いつ僕を超えるのか」という問いだ。
文章の整理や案を出す速さなど、個別の作業では、すでに自分より優れていると感じる場面がある。でも、作業のうまさと、僕という人間の全体を置き換えることは、分けて考えたい。
3.「もう一人の僕」を、外から見る
「全く同じ僕がいる」
制作中の感覚をそのまま言えば、そうなる。ただし、本当に僕の意識や人生が複製された、と言いたいわけではない。
AIに渡しているのは、僕が言葉にできたこと、選んだ資料、好きだと伝えたもの、違うと返した判断だ。言わなかったことも、まだ言葉になっていないこともある。僕と似た文章が出てくることと、僕の経験を同じように生きていることは、同じではない。
それでも、返ってきたものを見て、「僕はこういうものを選ぶ人なんだな」と気づくことがある。
白い余白。写真のコラージュ。素材の質感。歴史のあるものと新しい技術の組み合わせ。音楽なら、異なる時代やジャンルがつながる面白さ。別々の好みだったものに、共通する判断が見えてくる。
自分の内側にいるだけでは、好みは当たり前すぎて見えにくい。外へ出てきたものを見れば、好きなところも、違和感のあるところも指させる。
AIと作ることで、僕は作品と一緒に、自分の判断の輪郭も見ている。
ただし、それは僕をそのまま映す鏡ではない。AI側の表現の傾向や、整え方も混ざる。だから、きれいにまとまっているからといって、全部を自分の本音だと受け取らないようにしたい。
4.僕らしい。でも、僕が言いたかったことか
ここは、記事を作るときに特に気になる。
文章としては読みやすい。構成もきれい。間違ってはいない。でも、「僕の気持ちは、ちゃんと乗っているか」と考えると、もう一度直したくなることがある。
僕は、読みやすくしてほしい。でも、読みやすくする過程で、引っかかりまでなくしてほしいわけではない。
うまく説明できないのに惹かれること。理屈では割り切れない好き。少し恥ずかしい野心。そういう部分を残したまま、誰かに伝わる形にしたい。
AIの提案が自分に近づくほど、確認することも変わる。「文章として成立しているか」の先に、「これは本当に僕が引き受けたい言葉か」が出てくる。
僕らしい言葉と、今の僕が言いたい言葉は、いつも同じとは限らない。過去の好みにぴったり合っていても、今日は違うものを選ぶかもしれない。
だから、似ていることだけを完成の条件にはしたくない。少し違う提案に出会って、「今の僕はこっちが好きだ」と気づくことにも、対話する意味がある。
5.選ぶことも、AIに任せられるとしたら
以前、AI時代に必要なのは編集力だ、と書いた。何を残し、何を捨て、どう並べ、どんな意味として届けるのか。その判断に、自分の仕事があると思っている。
でも、「作るのはAI、選ぶのは人間」と分けたところで、話を終わらせるのも早い。
僕の好みに合うものをAIが提案できるなら、候補を絞ることや、並べ方を考えることも手伝える。編集だって、AIの外にある特別な聖域ではないはずだ。
それなら、僕はどこに関わりたいのか。
今の僕は、何を面白がって、誰に届けたくて、どこまで自分の名前で出すのか。その約束を引き受けるところに、関わり続けたい。
仕事は約束だと、僕は考えている。記事に事実の誤りがあれば、AIが書いたからで終わらせずに確かめ、直す。作品を出すなら、誰かの権利や、受け取る人のことも考える。
そして、反応を受け取る。思っていたように届かなかったら、作り直す。AIを使ったかどうかだけでは、その往復はなくならない。
これは、人間にしか絶対できない能力を宣言する話ではない。僕が作り手として、手放したくない関わり方の話だ。
6.もう一人の僕と、これからの僕
アートも、デザインも、ビジネスも。僕にとっては、どれも本気で面白い。きっと、本気で取り組んでいるからこそ見えてくる面白さもある。その組み合わせが、僕なんだと思う。
以前、ポータブルスキルの記事では、専門が変わっても持ち運べる力について考えた。その力を使いながら、違う分野で得たものをつなぎ、自分の判断をつくっていく。AIとの会話は、それを何度も試せる時間になっている。
頭の中に散らばっていたものを言葉にする。返ってきたものを見て、「そうそう」と思ったり、「いや、そこは違う」と言い直したりする。その往復で、自分が何を面白いと思い、どうしたいのかが、少しずつはっきりしてくる。
言葉にした自分の考えに、行動も近づけていく。分からないところを学び、試して、また考える。道具を使いこなそうとするうちに、僕自身の考える力も育っている気がする。
全部を思い通りにできるわけではない。でも、自分が何を選んでいるのかを理解して、次の一歩を自分で決められる。自分で舵を取れる状態へ、少しずつ自分を持っていける。その感覚がある。
もちろん、対話の外にも好きな時間はある。知らない音楽を聴く。古いガラスに触れる。民芸を見る。京都を歩く。人と話す。そこで受け取ったものを制作に持ち帰り、AIからの提案で、また次に見たいものが変わる。
僕が材料を渡して終わりではなく、返ってきたものが僕を変えて、その僕がまた何かを渡す。その往復が、面白い。
AIの中に、もう一人の僕がいる。そう感じたところから始まったけれど、会話を重ねるたびに、こちら側の僕も変わっている。
もう一人の僕と話していたら、僕のほうまで面白くなってきた。
次は何を作ろうか。音楽でも、ゲームでも、まだ名前のついていない何かでもいい。学んで、試して、誰かの力も借りながら、形にしていけばいい。
なんだってできるんだから。
