メディア論とアートとは何か:SNS時代に作品が変わる理由

「メディアはメッセージである」——マクルーハンの洞察は、SNS時代のアートにこそ当てはまります。映える展覧会、拡散される作品画像、プラットフォームが変える鑑賞体験——メディア論の基本から現在を読み解きます。

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メディア論とアートとは何か:SNS時代に作品が変わる理由

草間彌生の《インフィニティ・ミラー・ルーム》系の展示が世界各地の美術館に巡回すると、決まって長蛇の列ができます。鏡張りの小部屋に入れるのは一度に数人、滞在時間はわずか数十秒です。その短い時間の大半を、多くの観客はスマートフォンを構えて過ごします。そしてSNSには、ほとんど同じ構図の無限の光の写真が並びます。数時間並んで数十秒撮影する——この行動は、鑑賞の失敗ではなく、現代における鑑賞の標準形なのかもしれません。

作品の前で起きていることが変わったのなら、変えたのは何でしょうか。作品自体ではなく、観客のポケットの中の機械と、その先につながるプラットフォームです。つまりこの現象を解く鍵は美学ではなくメディア論にあります。

メディア論は、伝えられる内容ではなく「伝える手段」が人間と社会をどう変えるかを考える学問です。その古典的な洞察を足場にすると、映える展覧会も、拡散される作品画像も、場当たり的な流行ではなく構造的な変化として読めるようになります。

「メディアはメッセージである」の本当の意味

マーシャル・マクルーハンが1960年代に放ったこの警句は、しばしば誤解されます。彼が言ったのは「発信内容が大事だ」ではなく、その逆——メディアの形式そのものが、内容とは無関係に人間の知覚と社会の編成を作り変える、ということです。マクルーハンは電灯を例に挙げます。電灯には番組も記事もありませんが、夜を活動時間に変え、都市の姿を一変させました。メディアの効果は、それが運ぶ中身ではなく、それが可能にする関係の再編にあります。

この視点をSNSに当てはめると、問うべきは「何が投稿されたか」ではなく「投稿という形式が何を変えたか」になります。誰もが発信者になれること、反応が数値で可視化されること、画像が文脈から切り離されて流通することです。アートに起きている変化の多くは、この形式の水準で起きています。マクルーハンはメディアを「人間の拡張」とも呼びましたが、カメラ付きの携帯端末は眼と記憶の拡張であり、拡張された眼を持つ観客は、拡張前と同じようには絵の前に立てないのです。彼はまた、情報の密度と受け手の参加度によってメディアを「ホット」と「クール」に分類してみせました。分類の当否はともかく、メディアごとに観客の関与の仕方が変わるという着眼は、展示室でスマートフォンを構える身体を考えるうえで今も有効です。

ベンヤミンの複製論——アウラの消滅から流通価値へ

もう一人の古典的な参照点が、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」(1930年代半ば)です。ベンヤミンは、写真や映画による複製が、オリジナルの作品だけが持つ一回性の輝き——アウラ——を衰退させると論じました。同時に彼は、複製が芸術を儀礼から解放し、多くの人に開くことも見ていました。礼拝の対象だった作品が、展示され、印刷され、茶の間に届きます。価値の重心が「礼拝的価値」から「展示的価値」へ移るという指摘です。

SNS時代は、この延長線上にもう一段階を付け加えたように見えます。展示されるだけでなく、共有され、拡散されること自体が価値になる段階——言わば流通的価値の時代です。興味深いのは、複製が氾濫するほどオリジナルの吸引力が増すという逆説です。《モナ・リザ》の画像を無数に見てきた人ほど、ルーヴルで本物を見ようと列に並びます。スマートフォンの中の複製は、アウラを殺すどころか、本物への渇望を養殖しているふしがあります。ベンヤミンの図式は単純な直線ではなく、複製と一回性が互いを増幅し合う循環として、現在も更新され続けているのです。

「映える」は設計できる——没入型展示の台頭

プラットフォームの論理は、展覧会の作り方にも浸透しました。2010年代以降、チームラボに代表される没入型のデジタル展示が世界的に拡大し、写真映えする巨大空間、光と色の体験、撮影自由の方針を掲げる施設が観客動員の記録を塗り替えてきました。ニューヨークでは2016年開業の「ミュージアム・オブ・アイスクリーム」のように、撮影されることを第一に設計された体験施設まで登場し、美術館とフォトスタジオの境界を曖昧にしました。

従来の美術館も無縁ではありません。かつて館内撮影は原則禁止が主流でしたが、近年は撮影可の展示室を設ける館が世界的に増えました。観客の投稿は無料の広報であり、若い来館者層の開拓につながるからです。一方で批判もあります。撮影の行列が鑑賞を妨げる、体験が「撮れる絵」に均質化する、静かに見る権利が損なわれる——美術館は今、撮る観客と見る観客の利害を調停する立場に置かれています。撮影可の室と不可の室を分ける、混雑時のみ撮影を制限するといった運用の細部は、実は「鑑賞とは何か」をめぐる各館の思想表明にほかなりません。

プラットフォームが様式を作る——アルゴリズム時代の作品形式

メディア論の要諦は、形式が表現を規定するという点にありました。ならばSNSというメディアの形式は、作品そのものをどう変えていますか。正方形や縦長といった画面比率は構図の感覚に影響し、スクロールの速度は「数秒で目を留めさせる」強度を要求します。注意力が希少資源として売買されるアテンション・エコノミー(注意経済)の下では、複雑な文脈を要する作品より、一瞥で伝わる作品が構造的に有利になります。さらに見過ごせないのが、推薦アルゴリズムの存在です。どの作品画像が誰の目に届くかは、編集者でも批評家でもなく、反応率を最大化する計算が決めています。かつて趣味の形成を担った批評や教育の役割の一部を、今は機械の配信網が引き受けているのです。

作品の流通単位も変わりました。かつて美術体験の単位は展覧会でしたが、今では一枚の画像、数十秒の動画がそれに取って代わりつつあります。オンラインで作品を販売するビューイングルームや、2021年に高額落札で話題を呼んだNFTアートのように、市場までもがプラットフォーム上に移設されつつあります。マクルーハン流に言えば、アートワールドは今、新しいメディアに合わせて自らの神経系を配線し直している最中なのです。

それでも現場でしか起きないこと

ただし、この変化を「実物の敗北」と読むのは早いです。むしろプラットフォームの飽和は、画面に還元できない体験の価値を照らし出しています。作品のスケールに身体が包まれる感覚、絵具の照り、彫刻の周りを歩くときの視点の連続的変化、他の観客と同じ空間で沈黙を共有する緊張です。これらは通信路を通りません。没入型展示の流行自体が、画面越しでは得られない身体的体験への飢えの裏返しだとも言えます。

メディア論的に言えば、実空間の展示とは「透明にならないメディア」です。情報として要約した瞬間にこぼれ落ちるものが多すぎるからこそ、人はわざわざ足を運びます。SNSが鑑賞を殺すのではありません。SNSで済むものと、現場でしか起きないものの境界線が、かつてなくはっきり引かれ始めたのです。

SNS時代にアートを見るための視点

  • 展覧会で撮影したくなったら、一度「この衝動は作品への反応か、投稿の予感か」を観察してみます。
  • 話題の展示に行く前に見た画像群を、現場での体験と照合し、画像に写らなかったものを言葉にしてみます。
  • 撮影可の展示室では、まずスマートフォンをしまって数分見る時間を作り、それから撮ると体験が二層になります。
  • 作品画像が流れてきたら、切り離された文脈——サイズ、素材、展示空間——を想像で補ってみます。
  • 美術館の撮影方針や展示設計に、館側の戦略と葛藤を読み取ってみます。

メディアはメッセージである——この命題は悲観にも楽観にも使えます。プラットフォームは確かに鑑賞を作り替えましたが、その変化を自覚した観客は、画面と現場を使い分ける自由を手にします。ポケットの中の拡張された眼と、生身の眼です。二つの眼を意識的に切り替え、それぞれに適した仕事をさせること——それが、プラットフォーム時代の鑑賞者に求められる新しいリテラシーになるでしょう。

EDITORIAL PROFILE

田村 祐大

NACK / 企画・編集

岡山県出身、京都在住。京都芸術大学芸術学部卒業。暗号資産・Web3領域のプロダクトデザインに約7年間携わった後、NACKを始動。

アートを入口に、文化・経済・社会・テクノロジーの関係を読み解くNACK Journal / Timesを企画・編集している。

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