身体論とは何か:見る身体と見られる身体を読む

私たちは身体で世界を見て、同時に他者から見られています。メルロ゠ポンティの現象学からパフォーマンスアートまで、「見る/見られる」の交差から身体論の基本を整理し、アートにおける身体の意味を考えます。

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身体論とは何か:見る身体と見られる身体を読む

1964年、ひとりの女性が舞台に正座し、傍らに一丁のハサミを置きました。観客はひとりずつ登壇し、彼女の衣服を好きなだけ切り取ってよい——アーティスト、オノ・ヨーコによる《カット・ピース》です。切る者と切られる者、見る者と見られる者です。静かな時間のなかで、その非対称な関係がじわじわと張りつめていきます。彼女はただそこに座り、身体をさらしています。しかし、同時に、その視線と沈黙が、切る側の振る舞いを絶えず問い返してもいました。

私たちは、身体で世界を見ます。目や耳や手を通して、初めて世界は立ち現れます。ところが同じ身体は、他者からは「見られるもの」でもあります。街を歩けば誰かの視線を浴び、鏡の前では自分で自分を眺めます。見る主体であると同時に、見られる客体でもある——この二重性こそが、身体論という思考が出発する地点です。

身体論は、心と身体を切り離してきた西洋哲学の伝統を問い直すところから始まりました。以下では、身体を通して世界に触れるという考え方と、他者から見られることの意味、そしてそれをもっとも先鋭に扱ってきたパフォーマンスアートを手がかりに、身体をめぐる思考をたどっていきます。

私は身体を「持つ」のではなく身体で「ある」

近代哲学は長らく、確実なのは考える精神であり、身体はそれが宿る器械のようなものだと捉えてきました。心が主人で、身体は道具です。この構図に決定的な修正を迫ったのが、20世紀フランスの哲学者メルロ゠ポンティの現象学でした。

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彼が注目したのは、私たちが世界を経験する現場としての身体です。コーヒーカップに手を伸ばすとき、私は関節の角度や筋肉の収縮を計算していません。身体が、考えるより先に世界へと向かっています。私は身体を外から操作しているのではなく、身体としてこの世界に住み込んでいます。彼はこれを「生きられた身体」と呼びました。世界は、客観的な座標の集まりとしてではなく、つねに私の身体を中心に、手前と奥、届くものと届かぬものとして立ち現れます。見ることは、頭のなかの作業ではなく、身体ぐるみの出来事なのです。

触れる手は、触れられる手でもある

メルロ゠ポンティが挙げた印象的な例に、両手の重なりがあります。右手で左手に触れるとき、右手は「触れる主体」です。しかし、意識を切り替えれば、同じ左手が右手に「触れられる」ことを感じています。触れることと触れられることが、ひとつの身体のなかで絶えず入れ替わります。

この可逆性は、身体が主体と客体のあいだで揺れ動く存在であることを示しています。見る私と見られる私は、別々の二人ではなく、同じ身体の裏表です。だからこそ他者と向き合うとき、私は相手を見ながら、相手から見られてもいます。視線は一方通行ではなく、たえず交差しています。この「見る/見られる」の絡み合いを、彼は織物の縦糸と横糸のように捉えました。私と世界は、別々に存在して後から出会うのではなく、同じ一枚の布地のように織り合わされています。私が世界を見ることと、世界が私を成り立たせることは、切り離せません。アートが身体を扱うとき、しばしばこの交差そのものを主題にするのは偶然ではありません。作品の前に立つという経験自体が、すでに見ることと見られることの交差の上に成り立っているからです。

見られることが身体を作り変える

他者の視線は、単に私を映すだけではありません。それは私の振る舞いを変え、身体を作り変えていきます。人前に立つと背筋が伸び、視線を感じると仕草がぎこちなくなります。見られているという意識が、身体の内側から姿勢を規律していきます。

この視線の力を、社会の仕組みとして捉えた思想もあります。監視されているかもしれないと思うだけで、人は自分から規律に従う身体になります。見張りが実際にいるかどうかは問題ではありません。見られている「かもしれない」という感覚だけで、身体は従順になります。ここで視線は、権力が身体に働きかける道具になります。私たちの姿勢や身のこなしは、純粋に個人的なものではなく、どんな視線のもとで育ったかという社会的な履歴を帯びています。美術館で裸体像を眺めるとき、誰が誰を見る構図になっているのかを問うことは、この視線の政治に触れることでもあります。

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パフォーマンスアートが身体を差し出すとき

絵画や彫刻が身体の「像」を扱うのに対し、パフォーマンスアートは生身の身体そのものを作品にします。1970年代以降、アーティストたちは自らの身体を舞台に立たせ、見る者との関係を極限まで試しました。

たとえばマリーナ・アブラモヴィッチは、後年の代表作で、美術館の椅子に長時間ただ座り続け、向かいの席に座った来館者と無言で見つめ合いました。何も起こりません。しかし、視線を交わすだけで、多くの人が涙しました。ここでは、見る/見られるという関係のもっとも純粋な形が、作品として立ち上がっています。パフォーマンスアートが露わにするのは、身体が単なる物体ではなく、他者との関係のなかで意味を生み出す「現前」だという事実です。生身がそこにいることの重みは、どんな精巧な像にも置き換えられません。

こうした作品が観る者を揺さぶるのは、そこで身体が傷つきうる存在としてさらされているからです。切られるかもしれない、拒まれるかもしれない、崩れ落ちるかもしれない——生身の身体は、絵や彫刻の身体と違って、本当に何かを引き受けています。その脆さこそが、パフォーマンスの現前を張りつめさせます。私たちは像を鑑賞するのではなく、ひとりの人間の現に生きている時間に立ち会います。だからそこには、通常の鑑賞にはない責任と緊張が生まれます。

自分で自分を見るという循環

見る/見られるの交差は、他者との間だけで起きるのではありません。私たちは鏡の前で、自分自身を「見られる対象」として眺めます。このとき、見る私と見られる私が同じ身体のなかで折り重なります。画家たちが繰り返し自画像を描いてきたのも、この奇妙な循環と無関係ではありません。キャンバスに映る自分を見つめ、それを描く自分を意識します。自画像は、身体の可逆性そのものを主題にした営みだといえます。

現代では、この循環がさらに増幅されています。手のひらの端末で自分を撮り、加工し、他者の視線を想像しながら差し出します。セルフィーは、見る自分と見られる自分が絶え間なくフィードバックし合う、身体論の実験場のようなものです。私たちはかつてないほど、他者の視線を先取りして自分の身体を編集しています。メルロ゠ポンティが半世紀以上前に見抜いた「見る/見られる」の絡み合いは、日常のなかで日々更新され続けているのです。

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身体を読むための視点

  • 見る側の位置を意識します。作品の前で、自分がどこから、どんな高さで対象を見ていますか。その視点そのものが意味を帯びています。
  • 描かれた身体が誰に向けられているかを問います。像は、想定された視線に向かってポーズをとっています。その視線の主は誰でしょうか。
  • 生身の現前かどうかを区別します。写真や彫刻の身体と、目の前に実在する身体とでは、突きつけられる問いの重さが違います。
  • 見られることの緊張を感じ取ります。作品の身体が視線にさらされる不安や強さを、自分の身体の記憶と重ねてみます。
  • 姿勢の背後にある規律を探ります。ある身体の立ち方や身のこなしが、どんな社会の視線に育てられたのかを想像します。

身体論が教えるのは、身体が心の器でも、ただの物体でもないということです。それは世界に触れる場所であり、同時に他者にさらされる場所でもあります。アートが繰り返し身体を主題にしてきたのは、そこに人間存在のもっとも生々しい矛盾が宿っているからでしょう。見る主体でありながら見られる客体でもあるという、この解けない二重性が、私たちを他者へと開き、また傷つきやすくもします。次に作品の前に立つとき、あなたは対象を見ているだけではありません。あなた自身もまた、見る身体としてその場に現前し、作品や周囲の人々の視線のなかに置かれています。鑑賞とは、身体と身体が出会う出来事なのです。

企画・編集: 田村 祐大

企画・編集

田村 祐大

NACK / 企画・編集

岡山県出身、京都在住、時々東京。京都芸術大学芸術学部卒業。暗号資産・Web3領域のプロダクトデザインに約7年間従事した後、NACKを始動。

アートを入口に、文化・経済・社会・テクノロジーの関係を読み解く「NACK Journal / Times」を企画・編集している。

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