ウェルビーイング研究とは何か:よく生きるための美意識

「よく生きる」とはどういう状態ですか。ポジティブ心理学に始まるウェルビーイング研究の基本概念と、美しいものに触れることが心身に与える効果を整理し、アートと美意識が日々の暮らしを支える理由を考えます。

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ウェルビーイング研究とは何か:よく生きるための美意識

2018年、カナダ・モントリオールで、医師が患者に美術館への「処方箋」を出せる制度が始まりました。モントリオール美術館とフランス語圏医師会の連携によるもので、うつ症状や慢性疾患を抱える患者が、薬とともに美術館の無料入場券を処方されます。美術鑑賞が医療の隣に正式に置かれたこの試みは、世界中で報道され、その後各地の美術館が追随する動きも生まれました。

なぜ美術館が「処方」されるのでしょうか。背景には、健康の定義をめぐる長い問い直しと、幸福を科学的に扱う学問の蓄積があります。1948年に発効したWHO憲章はすでに、健康を「病気でないことではなく、身体的・精神的・社会的に良好な状態(ウェルビーイング)」と定義していました。問題は、その「良好な状態」をどう測り、どう育てるかでした。ウェルビーイング研究とアートの関係を、この問いからたどってみたいです。

「マイナスをゼロに」から「よく生きる」へ——ポジティブ心理学の転回

20世紀の心理学は、不安や抑うつといった苦痛を減らす研究——いわばマイナスをゼロに戻す仕事——を中心に発展してきました。これに対して1998年、米国心理学会の会長に就いたマーティン・セリグマンは、人間の強みや繁栄そのものを研究対象とする「ポジティブ心理学」を提唱します。ゼロからプラスへ。何が人を生き生きとさせるのかを正面から扱う学問の始まりであり、「ウェルビーイング研究」が世界的な潮流になる転回点でした。

セリグマンが後にまとめたPERMAモデルは、ウェルビーイングを五つの要素——ポジティブ感情、没頭(エンゲージメント)、人間関係、意味、達成——に分解しました。ここで注目したいのは、快楽としての幸福(ヘドニア)と、自分の可能性を発揮して生きる充実(ユーダイモニア)が区別されている点です。後者はアリストテレスが『ニコマコス倫理学』で論じた「よく生きること」に由来する概念です。つまりウェルビーイング研究は、二千年越しの哲学の問いを実証科学として引き受けた学問なのです。

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アートは心身に効くのか——WHOが検証したエビデンス

では、美しいものに触れることは本当に心身に作用するのでしょうか。2019年、WHOヨーロッパ地域事務局は芸術と健康に関する900以上の文献を横断的に検証した報告書を公表し、鑑賞や創作活動への参加が、ストレス反応の低減、慢性疼痛の緩和、抑うつや孤独感の軽減などと関連することを示す研究が積み上がっていると結論づけました。歌うこと、踊ること、描くこと、観ること——芸術への関与を健康政策に組み込むよう各国に促した点で、画期的な文書です。

英国では、医師が薬の処方の代わりに地域の活動を紹介する「社会的処方」が制度化され、リンクワーカーと呼ばれる専門職を介して、合唱団や絵画教室、博物館プログラムなどがその選択肢に含まれています。重要なのは、アートが「病気を治す薬」としてではなく、人とのつながりや自己表現の回路を回復させる営みとして位置づけられていることです。孤独が喫煙に匹敵する健康リスクとして議論される時代に、共に歌い、共に作る場の価値は医療の言葉でも語られ始めています。効果の機序はなお研究の途上ですが、「芸術は余裕のある人の贅沢品」という古い前提は、公衆衛生の側から静かに書き換えられつつあります。

没頭という幸福——フロー理論が示す「過程」の価値

ウェルビーイング研究とアートをつなぐもう一つの鍵概念が「フロー」です。心理学者ミハイ・チクセントミハイは、画家たちが寝食を忘れて制作に没入する姿の観察から研究を出発させ、行為に完全に没頭して時間感覚が消え、自意識が薄れる状態をフローと名づけました。自分の技能と課題の難しさが釣り合ったとき、人はこの状態に入りやすいとされます。

フロー概念が示唆するのは、幸福が「結果」ではなく「過程」に宿るということです。上手な絵を完成させることよりも、描いている時間そのものが人を充実させます。趣味の陶芸や手芸、楽器の練習が生活の支えになるのは、評価から自由な没頭の時間が日常に確保されるからです。逆に言えば、SNSの「いいね」の数を気にしながらの創作は、フローの条件である「行為それ自体が目的であること」を壊しやすいです。うまくなるためでも見せるためでもない制作の時間を持てるかどうかが、分かれ目になります。

鑑賞にも同じことが言えます。一枚の絵の前で筆致を追い、構図を確かめ、連想を巡らせる時間は、通知に断ち切られて散漫になりがちな注意を「今ここ」へ引き戻す訓練でもあります。美術館という、スマートフォンをしまい、歩く速度を落とす場所の価値は、この注意の回復にあると考えることもできます。

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畏敬という感情——大きなものの前で自己が小さくなるとき

近年のウェルビーイング研究で特に注目されているのが「畏敬(awe)」の感情です。満天の星空、大聖堂の天井、圧倒的なスケールの絵画——自分より大きな何かに出会ったとき、人は言葉を失い、自己が小さくなる感覚を味わいます。心理学の研究では、この畏敬の経験が、自己中心的な思考の低減や他者への寛容さ、時間に追われる感覚の緩和と関連することが報告されてきました。高齢者が景色に驚きを見つけながら歩く「畏敬の散歩」を続けると、ポジティブ感情が高まったという実験もあります。

これは、宗教建築や庭園が数百年にわたって果たしてきた役割を、科学の言葉で説明し直したものとも言えます。京都の寺院の庭に長く座っていると、いつのまにか呼吸が深くなり、抱えていた悩みの輪郭が少し小さく見えてくる——そうした経験は多くの人が知っているはずです。自然や芸術がもたらす「自分が世界の中心ではない」という感覚は、単なる気晴らしではなく、心の健康を支える栄養素の一つなのです。

暮らしのなかの美——モリスと民藝が先取りしていたこと

美意識と暮らしの関係は、実は19世紀から思想として語られてきました。英国のウィリアム・モリスは「役に立つと分からないもの、美しいと信じられないものを家に置いてはならない」と説き、産業革命後の粗悪な量産品があふれる暮らしに対して、手仕事の美を生活へ取り戻すアーツ・アンド・クラフツ運動を主導しました。住まいと日用品の質が人間の精神の質を左右するという確信が、その根底にはありました。

日本では1920年代、思想家の柳宗悦らが、無名の職人が作る日用品にこそ健やかな美が宿るとして「民藝」という言葉を作り、「用の美」——使われることで輝く美——の思想を打ち立てました。特別な芸術品を所有することではなく、毎日手に取る茶碗や布に美を見出すことです。一日に何十回も触れる日用品の質は、美術館で年に数回受け取る感動よりも、生活の手触りを深く規定しているかもしれません。日々の小さな経験の質の積み重ねがウェルビーイングを左右するという現代の研究の知見を、モリスも民藝も、直観のかたちで先取りしていたと言えるでしょう。

美意識を暮らしに生かす5つの視点

  • 処方箋のように使う:気分が沈みがちな時期こそ、美術館や好きな建築を訪ねる予定を先にカレンダーへ入れます。
  • 没頭の時間を確保する:上達や成果を目的にせず、描く・作る・弾く時間そのものを目的とする趣味を一つ持ちます。
  • 日用品から始める:毎日使うもの一つ——茶碗、ペン、タオル——を「美しいと思えるもの」に替えてみます。
  • 人と見る:誰かと一緒に鑑賞して感想を交わします。PERMAの言う「関係性」と「意味」を同時に満たす行為になります。
  • 記録する:心が動いたものを写真やメモで残します。ポジティブな経験への感度そのものが少しずつ育っていきます。

美意識は、生まれつきの才能でも金銭的な贅沢でもなく、暮らしの技術です。モントリオールの処方箋が示したのは、アートが特別な人のためのものではなく、誰の生活にも組み込める健康資源だという事実でした。よく生きるための道具箱に、美しいものと過ごす時間を一つ、加えてみてほしいです。

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企画・編集: 田村 祐大

企画・編集

田村 祐大

NACK / 企画・編集

岡山県出身、京都在住、時々東京。京都芸術大学芸術学部卒業。暗号資産・Web3領域のプロダクトデザインに約7年間従事した後、NACKを始動。

アートを入口に、文化・経済・社会・テクノロジーの関係を読み解く「NACK Journal / Times」を企画・編集している。

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