ヒルマ・アフ・クリントとは?抽象絵画・霊性・未来の観客を解説

ヒルマ・アフ・クリントは、自然主義的な絵画を学びながら、1906年から幾何学と有機形態による大規模な非具象作品を制作したスウェーデンの画家です。《神殿のための絵画》《10の最大物》を軸に、霊性、科学への関心、連作、公開の遅れを事実に沿って解説します。

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ヒルマ・アフ・クリントとは?抽象絵画・霊性・未来の観客を解説
アーティスト48 診断対応記事 ヒルマ・アフ・クリントを「最初の抽象画家」という順位だけで見るのではなく、見えない関係を連作と記録で組み立てた画家として読みます。

見える世界を描く訓練から始まった

ヒルマ・アフ・クリント(1862–1944)は、スウェーデン王立美術アカデミーで学び、自然主義的な肖像画や風景画を制作しました。抽象だけを突然始めたのではありません。観察して形を取り、絵具で整理するアカデミックな訓練を持ったうえで、目に見えない関係を描く方法へ進みました。

19世紀末から20世紀初頭には、X線、電磁波、原子をめぐる研究が、肉眼では見えない世界への関心を広げていました。同時に、神智学、心霊主義、後の人智学などの霊的運動も広がっていました。アフ・クリントの作品は、この時代の科学と霊性を単純に一つへ混ぜたものではありません。両方に触れながら、世界の背後にある秩序を独自の図像へ変えようとした仕事です。

「5人」と自動描画——一人の天才だけではない始まり

1896年、アフ・クリントはアンナ・カッセルら4人の女性と「5人(De Fem)」を結成しました。彼女たちは定期的に集まり、交霊会の記録を取り、自動筆記や自動描画を行いました。現代から見て、その霊的主張を事実として証明することはできません。しかし、反復的な共同制作、ノート、図像の蓄積が、後の作品へつながったことは確認できます。

「霊が描かせた」とだけ説明すると、アフ・クリント自身の判断、制作技術、編集、長期計画が消えてしまいます。初期には自分が高次の存在の指示を受けていると考えましたが、《神殿のための絵画》後半では、より自律的にシリーズを組み立てました。受信と制作、共同体と個人の境界が揺れること自体が、彼女の仕事の特徴です。

《神殿のための絵画》——193点で一つの世界を作る

1906年から1915年にかけて制作された《神殿のための絵画》は、絵画と紙作品を合わせた193点の大規模な計画です。単独の名画を一枚ずつ作るのではなく、複数の群とシリーズによって、生命、二元性、成長、統合をたどる構造を作りました。

円、螺旋、楕円、十字、文字、植物に似た形が、淡い色と強い色の両方で反復されます。記号に固定した辞書があるわけではありません。同じ形も、置かれるシリーズや色の関係で意味が変わります。見る側は「これは何の絵か」を一語で当てるより、形がどのように対立し、近づき、変化するかを追う必要があります。

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《10の最大物》——成長を身体より大きく描く

1907年の《10の最大物》は、幼年期、青年期、成人期、老年期という人生の段階を10枚で扱った連作です。各画面は約3メートルを超える規模を持ち、鑑賞者の視野に収まりきりません。花、渦、円、文字のような形が、ピンク、青、黄、橙などで広がります。

人生を人物の物語や肖像で説明せず、色、曲線、比率、反復によって示した点が重要です。成長は一直線の年表ではなく、膨張と収縮、分離と結合が繰り返される運動として現れます。ここでは抽象は、対象を省略した結果ではなく、目に見えない時間を画面へ置くための方法です。

「最初の抽象画家」という競争から離れる

アフ・クリントは1906年までに非具象的な図像へ進み、カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチらの広く知られた抽象作品に先行しました。ただし、抽象絵画の歴史を「誰が最初か」という一つの順位へ戻すと、別々の地域と思想から同時期に起きた変化を見失います。

カンディンスキーらは展示、出版、教育を通じて同時代の美術界に影響を与えました。アフ・クリントの抽象作品は生前ほとんど公開されず、同じ回路では受容されませんでした。制作年の早さと、歴史的な影響の広さは別の問題です。彼女の再評価は、既存の美術史が何を展示し、誰を記録してきたかを問い直す機会になります。

作品はなぜ長く公開されなかったのか

アフ・クリントは、未来の観客なら作品を理解できると考えていました。Moderna Museetの最新説明では、抽象作品を死後少なくとも20年間公開しないという希望は、従来広まった「遺言」ではなく、1932年にノートへ付けた印と指示に確認されると整理されています。

作品が広く知られるまでには、希望した20年よりさらに長い時間がかかりました。1989年にニューヨークのP.S.1で展示され、2013年のModerna Museetの回顧展、2018–19年のグッゲンハイム美術館の展覧会を通じて国際的な認知が大きく広がりました。「時代に早すぎた」という美談だけでなく、保管、研究、展覧会、制度が作品を歴史へ入れるまでの過程を見る必要があります。

ヒルマ・アフ・クリントを見る5つの視点

  • 一枚の意味を即断せず、同じ形が連作の中でどう変わるかを追います。
  • 霊性を迷信として切り捨てず、かといって超自然的主張を事実ともせず、制作を動かした歴史的な思想として読みます。
  • 自然主義的な植物研究と抽象図形を分断せず、観察した生命と見えない関係をつなぐ試みとして見ます。
  • 「抽象の最初」を競うより、制作年、公開、影響、再評価を別々に考えます。
  • 大きさを情報として読みます。身体を包む画面は、図版やスマートフォンの縮小画像とは異なる経験を作ります。

ヒルマ・アフ・クリントが残したのは、秘密の記号の答えではありません。見えないものを、色、形、順序、記録によって共有可能な構造へ変える方法です。完成を急がず、未来の観客まで制作条件へ含めた長い時間の設計こそが、彼女を「世界を組み立て直す人」として読む理由です。

公式・美術館資料

EDITORIAL PROFILE

田村 祐大

NACK / 企画・編集

岡山県出身、京都在住。京都芸術大学芸術学部卒業。暗号資産・Web3領域のプロダクトデザインに約7年間携わった後、NACKを始動。

アートを入口に、文化・経済・社会・テクノロジーの関係を読み解くNACK Journal / Timesを企画・編集している。

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