NotesFilm映画を読む

『キル・ビル』は、映画が下手くそだ。だから愛おしい。

デザインと経営は、どこまで「好き」に賭けられるのか

円形の障子が雪庭へ開き、映画フィルムの円環と黄色い折り紙、赤い一点が章の境界とタランティーノの映画愛を表すNACK notesのオリジナル・アートワーク
※ネタバレを含みます。

1|Netflixで、また出会ってしまった

お盆休み、Netflixを開いたら、『キル・ビル Vol.1』(外部サイトを新しいタブで開く)があった。新しい作品を探すつもりだったのに、気づけば再生していた。

血は噴水のように吹き出す。突然アニメが始まる。黄色いトラックスーツの女が日本刀を持ち、ヤクザを何十人も斬っていく。大勢の大人が、お金と労力を使って作ったのに、どこかチープで、子どもっぽくて、すごくダサい。

日本語もかなり不器用だ。発音も、間も、言葉の選び方も完璧ではない。でも、それでいい。意味は伝わる。いや、正確ではないからこそ、「この日本映画の世界が好きなんだ」という気持ちがむき出しになる。

上手に話すことより、届けようとすること。整った言葉より、気持ち。私はそこにも『キル・ビル』の愛おしさを感じる。

2|統一感は、見た目ではなく「欲望」に宿る

もちろん、タランティーノは映画が下手な監督ではない。画面も編集も音楽も、恐ろしいほど巧い。

では、なぜ時々、こんなにも下手くそに見えるのか。

たぶん彼は、映画への「好き」を隠すのが下手なのだ。

デザインでは、色や書体を揃え、ノイズを消し、トーンを統一する。しかし、整っているのに何も残らないものもある。

『キル・ビル』は、カンフー、ヤクザ映画、時代劇、マカロニ・ウェスタン、アニメ、スプラッターを、縫い目が見えたまま接続する。それでも一つの映画に見える。

ジャンルではなく、タランティーノの興奮で統一されているからだ。格好いいものは薄めない。血を出すなら噴水にする。日本語が完璧でなくても、気持ちが届くなら使う。

デザインの一貫性とは、同じ見た目にすることではない。何を良しとし、何を絶対に弱めないか。その判断が一貫していることなのだ。

3|障子を開けるたび、映画のルールが変わる

『キル・ビル』では、扉や入口に意味がある。

障子を開けると、場面が変わる。室内から雪の庭へ出れば、光も、音も、戦い方も変わる。扉に入る前と、入った後。中と外。こちら側と向こう側。その境界を越えるたび、人間関係や感情まで切り替わる。

タランティーノは編集だけで映画を区切らない。空間そのものを編集装置にしている。

章タイトルが出る。時系列が飛ぶ。実写がアニメになる。カラーが白黒になり、影絵になり、雪の白へ移る。普通なら隠す「セクションの切れ目」を、映像表現として堂々と見せる。

これはウェブや誌面のデザインにも似ている。見出しは文章を分けるだけではない。読者の呼吸を変え、次の世界へ入るための扉になる。

『キル・ビル』は一本の滑らかな映画ではない。異なる部屋が連なった建築である。そして、どの扉を開けてもタランティーノがいる。

4|俳優の後ろに、別の映画史が立っている

ザ・ブライドが沖縄で訪ねる服部半蔵は、千葉真一が演じる。千葉は1980年に始まったテレビシリーズ『服部半蔵 影の軍団』(外部サイトを新しいタブで開く)でも、服部半蔵を演じていた。寿司屋で言い合う弟子役の大葉健二も、千葉が創設したJAC出身で、『影の軍団IV』に出演している。

コミカルな会話の裏に、師弟の時間と日本のアクション史が流れている。知らなくても笑える。知れば場面が二重に見える。

栗山千明も『バトル・ロワイアル』の記憶ごと、制服姿のGOGO夕張として現れる。俳優の身体が、映画同士をつなぐハイパーリンクになる。

オーレン・イシイの過去を描くアニメはProduction I.G(外部サイトを新しいタブで開く)。『攻殻機動隊』や『BLOOD THE LAST VAMPIRE』のファンだったタランティーノ自身が制作を依頼した。物語上必要だからアニメになるのではない。彼の頭の中では、ヤクザ映画もアニメも西部劇の音楽も、全部同じ棚にある。

引用とは、形を借りることではない。そこに付着した歴史と感情まで、新しい作品へ連れてくることなのだ。

5|殺せるのに殺さず、お尻を叩いて帰す

クレイジー88との大乱闘で、私が一番好きなのは、まだ少年にしか見えない構成員との場面だ。

ザ・ブライドは彼の刀を断ち、命を奪わない。代わりに刀の平でお尻をぺんぺん叩く。ヤクザとつるんだ報いだと叱り、母親のところへ帰れと追い返す。

日本語で観ると、ほとんど「ヤクザになって、悪い子ね」と叱っているように見える。

数十人が血まみれになる死闘が、一瞬で家庭のしつけへ変わる。馬鹿馬鹿しくて、優しくて、私はここが大好きだ。

タランティーノは暴力を一貫させない。敵だから全員殺す、とはしない。子どもに大人と同じ代償を払わせず、恐怖の中へ笑いと逃げ道をつくる。

デザインは、すべてを同じ強さで押し切ることではない。経営者の価値観も、できることより「できるけれど、やらないこと」に表れる。小さな例外に、その人の倫理と作品の輪郭が出る。

6|「好き」を、何百人が参加できる形にする

経営者の視点で見ると、『キル・ビル』は異常な資源配分の映画だ。

昔のカンフー映画にあったフィルムの傷や強いコントラスト(外部サイトを新しいタブで開く)を再現するため、複製を何度も重ねる。最新技術で古さを消すのではなく、お金と技術を使って、愛した安っぽさをもう一度つくる。

予算とは、何を諦めないかという宣言である。

監督の頭の中だけに映像があっても、映画は完成しない。撮影、衣装、美術、音楽、アクション、特殊効果。異なる専門家が同じ方向へ判断できるよう、「好き」を色、音、配役、工程へ翻訳しなければならない。

ビジョンとは、立派な言葉ではない。現場で迷った時、選択を一つに絞れる具体的な基準だ。

日本語は不完全でもいい。ジャンルの縫い目が見えてもいい。障子を開けるたび別の映画になってもいい。殺せる敵を、お尻だけ叩いて帰してもいい。

すべての選択に、タランティーノの「映画が好きだ」がある。

『キル・ビル』は不完全だから凄いのではない。不完全さまで自分の表現として成立させるほど、判断が徹底されている。

やはりタランティーノは、本当にすごい監督だと思う。


※サムネイルはNACKによるオリジナル・アートワークです。映画の場面写真、ポスター、公式ロゴは使用していません。

  • #デザイン

NACK notes / PROFILE

田村 祐大

Designer / NACK Founder

岡山県出身、京都在住。京都芸術大学芸術学部卒業。暗号資産・Web3領域のプロダクトデザインに約7年間携わった後、NACKを始動。

NACK notesでは、映画、YouTube、音楽、車、日々の選択を、自分の経験とアート・デザインの視点から読み直す。専門家として結論を示すのではなく、一人の読み手として考えた過程を記録している。