《歩く男》はいつ、なぜ生まれたのか
ジャコメッティは第二次世界大戦後、立つ女、歩く男、胸像などの人体像を繰り返しました。財団が所蔵資料とともに紹介する1947年の《歩く男》は、ほぼ等身大の細い身体が慎重に一歩を踏み出す像です。1959〜60年には、ニューヨークのチェース・マンハッタン広場計画に向けて《歩く男I》など別の歩行像も制作しました。同じ題名に近い作品が複数あるため、年と版を確認して鑑賞することが大切です。
細さを一つの象徴だけで説明することはできません。財団の年譜では、戦時中にジュネーヴで制作した像がしばしば極端に小さくなり、戦後に細長い等身像へ展開した過程が示されています。目の前の人物を一定の大きさへ写すのではなく、自分から見える距離と存在感をどう一つの像にするか。その反復のなかで、量感を抑えた身体が形成されました。
距離と表面を見る
ジャコメッティは肖像でも同じ人物を何度も描き、造形しました。像を作者の心理の告白と決めつけるより、まず正面性、台座に対する身体の比率、周囲に残る空間を見ます。細い像は余白を大きくし、近くで見ても人物が遠くに立つような感覚を生みます。これは鑑賞者が作品との距離を測り直す仕掛けとして読めます。
表面の凹凸も、空間との闘争を表すという一つの物語へ限定できません。MoMAの《指さす男》(1947年)には、粘土や石膏を盛り、削り、指で触れた制作の痕跡が、鋳造後のブロンズにも残されています。光は滑らかな面で均一に反射せず、小さな突起ごとに分かれます。輪郭だけでなく、照明と見る位置によって変わる表面を追うと、静止した像が揺らぐように見えます。
サルトルの読解と「実存主義」
哲学者ジャン=ポール・サルトルはジャコメッティについて論じ、MoMAも《指さす男》の解説で、像が「無」と「存在」のあいだにあるというサルトルの読解を紹介しています。ただし、ジャコメッティ自身の全作品を「実存主義の完璧な具現化」と断定するのは行き過ぎです。サルトルの文章は有力な同時代解釈の一つであり、作品の制作年、主題、素材とは分けて扱う必要があります。
孤独、不安、戦後という言葉は細い人物像と結びつけやすい一方、意味を先に決めると作品の差が見えなくなります。《歩く男》は前進し、《立つ女》は正面を向き、群像では互いに交わらない軌道が構成されます。姿勢、向き、人数、台座を比較し、そこから関係のあり方を考える方が、単一の心理診断より具体的です。
完成より反復を重ねた制作
パリのアトリエでジャコメッティは、弟ディエゴや妻アネットら身近な人物を長期にわたりモデルとしました。彫刻だけでなく絵画、素描、版画でも頭部や全身像を繰り返しています。作品を壊し続けた孤高の天才という逸話に縮めず、同じ問いを媒体と尺度を変えて検討した制作として見ると、細い像も長い仕事の一段階として理解できます。
作者のものと確認できない「失敗するために制作する」という言葉を結論に置く必要はありません。完成作のブロンズには、原型、鋳造、エディション、来歴があります。作品名が似ていても寸法や鋳造年は異なります。鑑賞時はキャプションで制作年と鋳造年を分け、正面だけでなく側面へ回り、身体の薄さと空間の広がりを確かめてください。
ジャコメッティを関連する作品から読む
人物の孤独という主題はモディリアーニの肖像と比較すると、顔の省略と身体の尺度の違いが見えてきます。空間の中の微かな気配は内藤礼の「存在」、彫刻と素材の関係はイサム・ノグチの石と光へつなげると、ジャコメッティだけを「孤独の象徴」へ閉じずに考えられます。
参照した資料
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