楽園の代償——ゴーギャンと文明批判
ポール・ゴーギャン(1848〜1903年)は、43歳だった1891年にフランス領タヒチへ渡りました。ヨーロッパ文明を離れた「純粋な楽園」を求めましたが、その理想は植民地主義の現実と、本人が作り上げた幻想の上に成り立っていました。
タヒチ以前——彼の彼地への途のり
店員から画家へ
若い頃は商船の船員として各地を航海し、その後パリで株式仲買人として働きました。余暇に絵を学び、ピサロら印象派の画家と交流します。1880年代に職を離れて画家として生きることを選びましたが、家族との関係や生活は不安定になりました。
タヒチへの移住
1891年、ゴーギャンはヨーロッパを離れ、当時フランスの植民地だったタヒチへ渡りました。西洋文明から遠い生活を求めましたが、現地社会はすでに植民地支配とキリスト教化によって大きく変化していました。彼の作品は観察と想像を混ぜ、理想化した「原始」をつくり出します。
タヒチ期の大作
『我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか』(1897年)
横幅約3.75メートルの大画面に、乳児から老女まで複数の人物、動物、植物、偶像が並びます。画面は右から左へ、人の誕生、日々の生、死への接近という時間の流れとして読むことができます。
題名の三つの問いに、画面は明確な答えを示しません。強い輪郭と平面的な色面、ポリネシアの人物や風景、ゴーギャン自身が考案した象徴を組み合わせ、人間の生と死をめぐる問いを一枚の絵に凝縮しています。
よくある質問(FAQ)
ゴーギャンは本当にタヒチのみで活動しましたか?
いいえ。1887年にはパナマとマルティニークに滞在し、フランスのブルターニュ地方でも制作しました。1891年にタヒチへ渡り、いったんフランスへ戻った後、再びポリネシアへ移住します。晩年はマルキーズ諸島のヒバ・オア島で過ごしました。
ゴーギャンの主要作品はどこで見られますか?
『我々はどこから来たのか』はボストン美術館が所蔵しています。パリのオルセー美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリーなどにも重要作品があります。
ゴーギャンによる先住民への表現には問題がありますか?
あります。ゴーギャンは植民地支配下のポリネシアを、西洋人が求める「未開の楽園」として理想化しました。現地文化を独自に改変して描いたことや、若い現地女性との性的関係も含め、植民地主義と権力の問題から批判的に見る必要があります。
ゴーギャンはゴッホに影響を与えましたか?
二人は1888年、アルルで約2か月共同生活を送り、互いに刺激を与えました。ゴッホが目の前の自然を激しい筆触で描いたのに対し、ゴーギャンは記憶や想像を重視し、輪郭で区切った平面的な色面を用いました。芸術観と生活上の対立が深まり、共同生活は破綻しました。
ゴーギャンのタヒチ期作品に登場する女性にはモデルがいたのですか?
現地の女性をモデルにした作品があります。ゴーギャンはタヒチやマルキーズ諸島で若い女性と同居し、子どもももうけました。相手の年齢や植民地支配下の力関係を踏まえ、今日では搾取の問題として厳しく批判されています。
関連記事:
Related Stories

ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンとは?グリッドシステムの効用と限界
ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン(1914–1996)は、Tonhalle Zürichのコンサートポスターや著書『Grid Systems in Graphic Design』(1981)で知られるスイスのデザイナーです。Swiss Styleを一人で発明したのではなく、学校、印刷、写真、Neue Grafik誌を含む共同的な潮流の一人です。グリッドの構造、読みやすさへの効用、崩すべき場面を解説します。
Read
オトル・アイヒャーとは?ミュンヘン五輪のピクトグラムとチーム制作
1972年ミュンヘン五輪の視覚計画は、オトル・アイヒャーが率いたVisual Design Groupによるチーム制作です。スポーツピクトグラムにはGerhard Jokschらが大きく関わり、東京1964の体系をさらに標準化しました。配色、グリッド、記号の規則と戦後西ドイツの自己像を確認し、「誰にでも自動的に伝わる」という断定の限界も考えます。
Read
ポール・ランドとは?IBMロゴの変遷と企業デザインを解説
ポール・ランド(1914–1996)は、IBM、UPS、ABCなどの仕事で知られるアメリカのグラフィックデザイナーです。IBMでは1956年の文字ロゴ、縞入りの変形、1972年の8-bar、1981年のEye-Bee-Mを区別する必要があります。年次、依頼体制、視覚上の工夫を確認し、ロゴが信頼や業績を生んだという未検証の因果は分けて考えます。
Read
