バウハウスとは?「形は機能に従う」の意味とデザイン教育を解説

バウハウスとは、ヴァルター・グロピウスが1919年にドイツで創設し、1933年まで続いた美術・工芸・デザイン・建築の学校です。「形は機能に従う」はバウハウスの標語ではなく、建築家ルイス・サリヴァンが1896年に記した言葉でした。予備課程、工房教育、量産への取り組みから、バウハウスの実像と現代デザインへの影響を解説します。

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バウハウスとは?「形は機能に従う」の意味とデザイン教育を解説

バウハウスとは——1919〜1933年の造形学校

1919年から1933年までの14年間です。ドイツのヴァイマルで産声を上げ、デッサウを経てベルリンで終焉を迎えたバウハウスの活動期間は短いです。しかしその影響の射程は驚くほど長く広いです。

バウハウスの影響は、建築、家具、タイポグラフィ、写真、舞台、そしてデザイン教育へ広がりました。ただし、現在のスマートフォンや量販家具をすべてバウハウスの直接の子孫とみなすことはできません。似た簡潔さだけで系譜を決めず、教育法、制作者、製造技術、移住先の学校を具体的にたどる必要があります。

バウハウス設立の思想的背景

第一次世界大戦後の廃墟から

1918年、第一次世界大戦が終わりました。ドイツは敗戦国として莫大な賠償金を課せられ、社会は政治的・経済的に混乱していました。芸術家・建築家・デザイナーたちは、この廃墟の上にどのような新しい社会を構築できるかを問い続けました。

創設者ヴァルター・グロピウスの1919年の宣言は、芸術家と職人の隔たりをなくし、諸芸術を建築へ統合することを掲げました。機械生産との連携が前面に出るのは、学校が方向転換した1922〜23年です。1923年の「芸術と技術——新しい統一」は、工房を産業と生活へ接続する次の段階を示す標語でした。

アーツ・アンド・クラフツとの対話

バウハウスの直接の思想的先祖は、19世紀イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動です。ウィリアム・モリスらが主導したこの運動は、産業革命による機械生産が手仕事の質を失わせることへの反省から、職人の手作りの価値を回復しようとしました。

しかしバウハウスはアーツ・アンド・クラフツとは決定的に異なる選択をしました。機械を否定するのではなく、肯定することです。良いデザインを少数の富裕層だけでなく、大衆が享受できるよう量産可能な形で実現することです。この「機械の肯定と大衆化」がバウハウスを20世紀的な運動たらしめました。

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「形態は機能に従う」はバウハウスの言葉なのか

結論から言えば、「形態は機能に従う(Form follows function)」は、もともとバウハウスが生んだ言葉ではありません。アメリカの建築家ルイス・サリヴァンが、1896年の論考『高層オフィスビルの芸術的考察』で記した「form ever follows function」が出典です。バウハウスの創設は1919年なので、この言葉はそれより23年前に登場しています。

サリヴァンが考えていたのは、建物の外観を過去の建築様式から借りるのではなく、その建物が何のために使われ、内部がどのように構成されるかを形に表すことでした。店舗が入る低層部、同じ用途のオフィスが反復する中層部、設備を収める最上部では役割が異なるため、それぞれの形にも違いが現れるべきだと論じました。これは「美しさを捨てて実用性だけを優先する」という意味ではありません。サリヴァン自身の建築には豊かな植物文様の装飾があり、機能から生まれる構成と芸術的な表現を両立させていました。

なぜバウハウスの言葉だと思われているのか

バウハウスはこの一文を校是として掲げたわけではありません。それでも両者が強く結びついて語られるのは、バウハウスが歴史的な装飾の模倣から離れ、用途、構造、素材、量産方法から形を考えたからです。1923年に掲げられた「芸術と技術——新しい統一」という方針も、造形を機械生産や日常生活へ接続する姿勢を示しています。

マルセル・ブロイヤーのスチールパイプ椅子では、軽さ、強度、量産性が細い骨組みの形へつながりました。デッサウの校舎では、工房、教室、住居という異なる用途が建物の各部分に表れています。タイポグラフィでも、読みやすさと印刷による複製が、装飾を抑えた文字や明快なレイアウトを導きました。こうした実践が、サリヴァンの言葉をバウハウスの機能主義を説明する代表的な標語のように見せたのです。

形は機能だけで決まるのか

バウハウスのデザインも、機能だけを入力すれば一つの正解が自動的に出るものではありません。同じ用途の椅子でも、素材、身体感覚、価格、製造技術、置かれる空間によって形は変わります。現代のデザインでは、使いやすさだけでなく、アクセシビリティ、修理のしやすさ、環境負荷、心理的な安心感まで機能に含めて考える必要があります。

したがって、「形態は機能に従う」はバウハウス以前に生まれ、バウハウスによって実践の幅を広げた近代デザインの原則と捉えるのが正確です。形を飾らないための命令ではなく、なぜその形である必要があるのかを、用途と生活から考え直すための問いなのです。

教育システムの革新

マイスター制度とプレリミナリー・コース

教育課程は14年間を通じて変化しましたが、多くの時期に入口となったのが予備課程(フォアクルス)です。イッテン、モホリ=ナジ、アルバースらが時期ごとに内容を変え、色、形、素材、知覚を実験しました。期間も一定ではなく、デッサウ後期には制度が改編され、ミース期には廃止されています。

予備課程の後、学生は金属、織物、木工、壁画、舞台などの工房で制作しました。ヴァイマル期には、芸術面を担うフォルムマイスターと技術を担うヴェルクマイスターが共同で教えました。この二重制度は1925年のデッサウ移転後に廃止され、元学生の若いマイスターや教授が工房を率いる体制へ変わります。

教師陣——20世紀アートの主要人物

バウハウスの教師陣は、その後の美術・デザイン史で主要な役割を果たす人物たちで構成されていました。

カンディンスキーは壁画工房のフォルムマイスターを務め、分析的ドローイングと色彩セミナーを教えました。クレーは複数の工房に関わりながら基礎的な造形理論を担当し、モホリ=ナジは金属工房と予備課程を率いました。ハーバート・バイヤーは印刷・広告分野で、写真、文字、レイアウトを組み合わせる実践を進めました。

バウハウスの主要作品とデザイン

マルセル・ブロイヤーの「ワシリー・チェア」

1925年、学生だったマルセル・ブロイヤーは自転車のハンドルバーにヒントを得て、スチールパイプを曲げた椅子を製作しました。後に「ワシリー・チェア」と呼ばれるこの作品は、工業材料(スチールパイプ)と布地(皮革・ファブリック)の組み合わせによって、軽量で丈夫かつ量産可能な椅子を実現しました。

従来の木製の重厚な椅子に代わる、この透明感のある構造体は「近代家具の原型」として今日でも生産が続いています。

バウハウス書体とグラフィック・デザイン

1925年、ハーバート・バイヤーは大文字を使わない幾何学的な「ユニバーサル」文字案を制作しました。これはバウハウス全体が完成させた単一の標準書体ではなく、当時は金属活字として製品化もされていません。学校のタイポグラフィは時期と制作者によって多様で、初期には表現的・カリグラフィックな作例もありました。

バイヤー、モホリ=ナジ、ヨースト・シュミットらの印刷物は、明快な文字の階層、写真と文字の統合、規格化された紙面、強い大きさや色の対比を試しました。後のグラフィックデザインへ大きな参照点を与えましたが、Futura、Gill Sans、Helveticaをすべてバウハウス書体の直系とするのは不正確です。それぞれ別の制作者と地域的文脈を持ちます。

デッサウのバウハウス校舎

グロピウスが設計し、1926年に開校したデッサウ校舎は、工房、職業学校、管理・教育部門、学生住居を用途ごとの棟に分け、通路で結んでいます。工房棟の大きなガラス面、非対称な構成、機能ごとに異なる外観は、建物を一つの正面からではなく、歩きながら理解させます。近代建築の共有語彙を示しますが、ル・コルビュジエとの単純な先後関係には還元できません。

終焉と遺産——ナチスの弾圧と世界への伝播

ナチスによる閉鎖

バウハウスは地域政治と資金をめぐる圧力のなかで、1925年にヴァイマルからデッサウへ、1932年にベルリンへ移りました。1933年4月、ゲシュタポがベルリン校舎を捜索し、学校は閉鎖されます。再開に厳しい条件が示された後、教員側は同年7月に学校の解散を決定しました。「自主閉鎖」だけでは、ナチ体制下の強制を見落とします。

亡命と世界的伝播

閉校後、アルバース、カンディンスキー、クレー、グロピウス、モホリ=ナジ、ブロイヤー、ミース、バイヤーら著名な教員・卒業生は、時期も事情も異なりますがドイツを離れました。グロピウスとブロイヤーはハーバード、モホリ=ナジはシカゴのニュー・バウハウス、ミースは現在のIITで教育に携わります。一方で全関係者が亡命したわけではなく、残留した人々の経歴も一様ではありません。

この亡命が「バウハウスの世界化」をもたらしました。アメリカの戦後デザイン教育の多くがバウハウスの影響下に形成され、アメリカを経由して世界中に広まりました。

比較すると見えること

バウハウスは、機能的なデザインの始まりとして語られがちですが、それだけではありません。ミニマリズム、隈研吾、深澤直人と比較すると、形、生活、素材、無意識の使いやすさがつながって見えてきます。

何もない豊かさ:ミニマリズムが到達した「沈黙のオブジェ」
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ミニマリズムが少なさで空間を問うた理由

  • 共通点: 余分な装飾を削り、構造を重視した
  • 違い: バウハウスは機能と教育、ミニマリズムは物体と空間を問うた
  • 読むと見えること: 削ぎ落とすことの目的の違い
隈研吾:木と自然素材が問い直す「日本らしさ」
隈研吾:木と自然素材が問い直す「日本らしさ」

隈研吾が素材から建築を考え直した理由

  • 共通点: 建築やデザインを生活環境として考えた
  • 違い: バウハウスは普遍的機能、隈は素材と場所の関係へ向かった
  • 読むと見えること: 機能主義と環境への感度の違い
深澤直人:without thought、意識しないデザイン
深澤直人:without thought、意識しないデザイン

深澤直人が意識しないデザインを重視する理由

  • 共通点: 生活に溶け込むデザインを考えた
  • 違い: バウハウスは形と機能の統合、深澤は無意識の行為に寄り添う
  • 読むと見えること: 機能が使いやすさや振る舞いへ広がること

バウハウスを機能主義の標語だけで理解すると、生活を作り替える実験としての広がりが見えにくくなります。ミニマリズムと比べると、削ぎ落とすことが機能にも空間にも向かうことが分かります。隈研吾と比べると、普遍的な形から素材や環境への関心の変化が見えます。深澤直人と比べると、機能は見た目だけでなく、身体が自然に使えることへ広がっていきます。

よくある質問(FAQ)

バウハウスはなぜヴァイマル・デッサウ・ベルリンと移転したのですか?

バウハウスは政治的な圧力によって複数回の移転を強いられました。ヴァイマル(1919〜1925年)では地方政府の予算削減により移転です。デッサウ(1925〜1932年)では市議会がナチス党員多数派となり継続困難に。ベルリン(1932〜1933年)ではナチス政権の圧力で1933年に自主閉鎖です。各地での移転は外部からの弾圧だけでなく、内部での理念をめぐる対立(例:スイス系の教師ヨハネス・イッテンと産業主義的なモホリ=ナジとの路線対立)とも絡んでいました。

バウハウスの影響を受けた現代の製品・ブランドにはどのようなものがありますか?

現代の製品を、外観が簡潔という理由だけでバウハウス直系と断定することはできません。IKEAやAppleとの比較は理解の入口にはなりますが、各社の公式資料だけで直接継承を一律に証明できるわけではありません。確実に追える影響は、ブロイヤーらの家具、バイヤーらの印刷物、そして閉校後に教員が欧米の学校へ移した教育法です。個別製品は制作者と資料を確認して判断します。

バウハウスにおける女性の地位はどうだったのですか?

1919年の入学方針は女性にも門戸を開きましたが、実際には女性の進路が織物工房へ集中し、そこは「女性部門」とも呼ばれました。これは平等な制度が実現していたことを意味しません。一方、グンタ・シュテルツル、アニ・アルバースらは、工芸的な一点制作から工業生産に対応する機能的テキスタイルへ工房を発展させました。理念、制度、作品上の成果を分けて評価する必要があります。

バウハウスとロシア・コンストラクティビズムの関係は?

両者は1920年代に相互の影響を持ちました。ロシアのコンストラクティビズム(エル・リシツキー、アレクサンドル・ロトチェンコなど)は幾何学的な形態言語と工業的な材料を重視し、バウハウスのデザイン言語と多くの共通点を持ちます。エル・リシツキーはバウハウスを訪問し、モホリ=ナジに直接影響を与えました。しかしコンストラクティビズムが社会主義的な政治的プログラムと強く結びついていたのに対し、バウハウスはより普遍的な美学と機能性の追求を前面に出しました。

バウハウスの「フォアクルス(予備課程)」は現代の美術教育にどのような影響を与えましたか?

予備課程のように、初年次に色、形、素材、構成を横断して学ぶモデルは、閉校後の教員の移動や出版・展覧会を通じ、多くの美術・デザイン学校へ影響しました。ただし「ほぼすべての美大」や日本の各科目が直接継承したとは一括りにできません。学校ごとに、導入時期、教員、カリキュラム資料を確認する必要があります。影響は広い一方、受容の仕方は地域と時代で異なります。

関連記事

バウハウスを一次資料で確かめる

バウハウスは一枚岩の「ミニマル様式」ではありません。創設時の工芸共同体、1923年以降の産業との連携、ハンネス・マイヤー期の社会的・科学的設計、ミース期の建築重視では方針が異なります。年代、校長、場所をそろえて作品を見ると、単純なブランド神話から学校の実験史へ視点を移せます。

参照した一次・公式資料

EDITORIAL PROFILE

田村 祐大

NACK / 企画・編集

岡山県出身、京都在住。京都芸術大学芸術学部卒業。暗号資産・Web3領域のプロダクトデザインに約7年間携わった後、NACKを始動。

アートを入口に、文化・経済・社会・テクノロジーの関係を読み解くNACK Journal / Timesを企画・編集している。

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