デザインは一人では完成しない——アルファ ロメオとジウジアーロの3台を「読む」
CGオンエアの試乗動画を入口に、美しさの背後にある「関係のデザイン」を考えた
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NACK notes #002|YouTubeを読む 視聴したのは、CGオンエアによるアルフェッタGT、アルファスッド スプリント、ブレラの試乗動画。本稿は動画全体の要約や車両評価ではなく、そこから僕に残った問いを記すものです。
動画に「読書感想文」を書く、という言い方は少し変かもしれない。けれど、映像にも構成があり、語り手の時間があり、見終えたあとに自分の中へ残る一文がある。だから僕は、動画も読むように見てみたい。
35分の映像を通して見えてきたのは、よいデザインは、誰か一人の頭の中だけでは完成しないということだった。
三台を並べると、作風より「関係」が見える
動画に登場するのは、1975年のアルフェッタGT、1980年のアルファスッド スプリント、2008年のブレラ。年代も、駆動方式も、重量も違う三台を、ジョルジェット・ジウジアーロとアルファ ロメオという一本の線でつないでいる。
もしこれがジウジアーロの作品集なら、共通する線や面を探したかもしれない。けれど、同じブランドの三台として見ると、問いが変わる。「この人らしい形は何か」ではなく、この人と、このブランドが出会ったとき、何が可能になったのかと考えたくなる。
これは昔の絵や映像作品、音楽にも繋がる。
ドラム、ギター、シンセサイザー、FM音源。楽器が違えば、思いつく音も変わる。スタジオで誰とつくるか、レコードで聴くか、ライブで聴くか。その組み合わせによって、同じ人の音楽でも違う体験になる。フェスなんて、生きててよかったと思える体験だ。音楽って素晴らしい。
昔の時代にDJ機材があったら、どんな世界なんだろう?
…と、話をジウジアーロとアルファ ロメオ、CGオンエアに戻そう。
作家性は、単独で保存される署名ではない。相手の歴史、技術、予算、用途、時代とぶつかりながら、その都度ちがう姿になる。三台の差は、作風がぶれた証拠ではなく、関係が生きていた証拠に見えた。
美しい形の内側に、機構がある
アルフェッタGTの章では、端正なクーペの姿と、トランスアクスル、ド・ディオン式リアサスペンション、インボードブレーキといった機構が、別々の話として語られない。試乗では、なぜアルファ ロメオがその構成を選んだのかが、前後重量配分やハンドリングの感触から読み解かれていく。
ここに、この動画の読みどころがある。
デザインは、完成した中身を最後に包む皮膚ではない。何を優先し、何を後ろへ置き、どこへ重さを配るのか。見えない判断の積み重ねが、やがて外から見える形になる。美しさと技術を別々に褒めるのではなく、両方を同じ思想の結果として見る。その視点に、アルファ ロメオというブランドの輪郭があった。
これはクルマだけの話ではない。ウェブサイトでも、空間でも、組織でも、表面だけを統一すればブランドになるわけではない。裏側の構造と、表に現れる振る舞いが同じ方向を向いたとき、初めて「らしさ」が生まれる。
制約は、作家性を薄めるだけではない
アルファスッド スプリントは、軽量な前輪駆動車を土台にする。ブレラは、会社の経営や技術提携を含む、別の時代の条件を背負って量産化された。自由に線を引くだけでは、どちらも生まれない。
制約という言葉には、創造性を小さくする響きがある。けれど三台を続けて見ると、制約は輪郭を奪うだけでなく、何を守るべきかを露出させるものにも思える。
軽さ、広さ、駆動方式、生産技術、経営条件。変えられないものがあるから、デザイナーと技術者は、どこにアルファ ロメオらしさを残すのかを選ばなければならない。そこで表れるのは、同じ装飾の反復ではなく、判断の一貫性だ。
ブランドとは、いつも同じ顔をすることではない。条件が変わるたびに、何を変え、何を変えないかを選び直すことなのだと思う。
やりたいことがある。でも、守らなければいけない条件もある。使える技術と予算の中で、できることを惜しみなく注ぐ。
それでも、できないことはできないんだ。じゃあどうする? 向き合うんだ、寄り添うんだ。
僕の仕事でも、全部の希望をそのまま足したら、いいものになるわけではない。誰に何を届けたいのかを考えて、順番をつける。諦めるものもあるけど、一番大切なところまで薄めたくはない。
コストを下げることも、多くの人に届けることも大事だ。でも、それだけではなく、何のためにつくったのかが、届いた先でも残っていてほしい。三台を見ながら、自分の仕事にもそんな問いを返した。
批評は、過去の自分も批評する
とりわけ印象に残るのは、ブレラの試乗終盤だ。加藤哲也さんは、登場当時に抱いた違和感を振り返りながら、時間を置いて乗ったことで評価を改める。27分54秒ごろに「ブレラ、見直した」と語り、今回の試乗で自分の記憶が更新されたという趣旨を続ける。
レビューは、ときどき最初の判断を保存するための文章になる。一度下した評価を変えると、負けたように見えるからだ。けれど本来、見る側にも時間が流れている。対象が変わらなくても、自分の経験が変われば、見えるものは変わる。
アルファスッド スプリントの章では、その逆方向の時間も映る。若い頃に初めて手にした輸入車へ再び乗り、当時の記憶と現在の身体が重なる。懐かしいから無条件に肯定するのではなく、いま運転してもなお何が魅力なのかを確かめている。
批評とは、対象だけを裁くことではない。過去の自分の見方も、現在の自分で読み直すことなのだと思った。
僕には、爽やかな笑顔で語るところが印象的だった。 前と違うことを感じた自分を、変に隠していない。 面白い体験じゃないか。
当時の違和感が、全部間違いだったという話でもないのだと思う。そのときに感じたことがあって、時間を置いた今、別の魅力にも気づいた。両方あっていい。
振り返ったことで、気づくことってあるんだ。 それって続けてるからこそ、できることなんだ。
最初にこの記事を書いたあと、僕も8年前につくった「Kinetic Chochin」を振り返る記事(外部サイトを新しいタブで開く)を書いた。当時は技術も届け方も未熟だった。でも、その未熟な自分が、知らないことを調べて実物をつくり切っていた。
前は足りなかったところばかり見ていたものが、今見ると、自分の背中を押してくれる。ここで書いていた「過去の自分の見方も読み直す」を、今度は自分の作品でやっていたんだと思う。
だから、昔の評価を守るために、今の発見まで捨てなくていい。前の自分を否定せずに、今の自分が見つけたものを足していけばいい。
NACKでデザインしているのも、関係なのだと思う
NACKで扱うアートも、作品だけで完結しない。作品と空間、作家と鑑賞者、文化と日常、思想と運用。そのあいだに、見えない関係がある。
同じ作品でも、どこに置き、誰が語り、どんな時間の中で出会うかによって意味は変わる。そこで僕がデザインしているのは、作品そのものというより、作品が届くための関係なのかもしれない。
今の僕なら、この「関係のデザイン」を、もう少し具体的に言える気がする。
デザインは、関係を編集することでもある。
誰のために、何を残し、何と組み合わせ、どう届けるか。自分が面白いと思ったものを、そのまま差し出すのではなく、相手にも面白さが伝わる形にする。僕がデザインを仕事にしている理由も、そこにある。
ただ並べれば伝わるわけではないし、全部を説明すればいいわけでもない。何を入口にして、どこまで見てもらうか。その順番にも、つくる側の判断がある。
ジウジアーロの名前だけでも、アルファ ロメオの名前だけでも、三台の魅力は説明しきれない。デザイナー、ブランド、技術者、経営条件、そして乗る人の記憶。その複数の力が交差した場所に、形が残った。
だから、よいものを見たときに「誰が作ったのか」だけで終わらせず、次はこう問いたい。
どんな関係が、この形を可能にしたのか。
目の前の形だけで判断するのは簡単だ。でも、前後の文脈も見てみたい。切り抜きだけで、全部分かったことにしたくない。
この問いを、NACK notesの二つ目の記録として残したい。映画でもYouTubeでも、そのとき世の中で話題になっていることでも、表面に見えるものの奥で、何と何が関係しているのかを、アートとデザインの視点から読んでいこうと思う。
そして次は、もう少し視点を自分の内側へ向けたい。幼稚園の音楽会、ゲームのBGM、バンド、服、クラブ、VJ、DJ、そしていまy4tRとしてつくっている音楽まで。AIが「それらしい過去」さえ書ける時代に、実際にそこにいた身体は何を覚えているのか。僕自身の音楽史を、NACK notesで読み直してみようと思う。
ただの回想ではない。2000年代から2010年代を生きた一人の記憶を、誰かの「あるある!」へ接続する試みだ。
参照した公式資料
本文中の1975年、1980年、2008年は、動画に登場する試乗車の年式です。車種の発表年とは区別しています。
本稿はNACKによる独立したエッセイであり、CGオンエア、アルファ ロメオ、Stellantis、Italdesign、各権利者の協賛・承認・提携を示すものではありません。
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