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つくるたび、僕は僕を超えていく。——AI時代のリカーシヴィズム

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白い紙のコラージュに、紙の質感の三角錐・立方体・球体を左側に配置。左上からの光と右下への影、深い青の面が際立つ。「つくるたび、僕は僕を超えていく。AI時代のリカーシヴィズム」の見出し。

NACK notes #023|いまを読む

自分がいいと思ったものが、本当につくれる。

AIを使って音楽や映像をつくっていると、そう感じる瞬間がある。頭の中で鳴っていた音や、見たいと思っていた景色が、実際に聴いたり見たりできる形になる。少し前までは、そこへたどり着くまでの技術や時間を考えて、手をつけずにいたこともあった。

もちろん、思った通りにいかないことは今も多い。それでも、「自分には難しい」と置いていたものを、いったん試せるようになった。

面白いのは、そのあとだ。

できたものを見ると、次にやりたいことが出てくる。「この音なら、こういう映像を合わせたい」「この世界を、ゲームの中で歩けたらいい」。ひとつ形になるたびに、頭の中の計画まで変わっていく。

僕がつくりたかったものを、いまの僕がつくる。その作品に触れた僕は、つくり始める前の僕と、少し違っている。

この感覚に、名前をつけてみたいと思った。

キュビスムやフォーヴィスムのような、何とかイズム。AIを使っている自分の内側で、何が起きているのかを考えるための言葉だ。

対話をすると、欲しかったものが見えてくる

ずいぶん遠回りに見えるけれど、ソクラテスから考えてみたい。

プラトンの『テアイテトス』では、ソクラテスは自分の働きを、相手が考えを生むのを助ける「産婆」にたとえている。そして、生まれた考えが確かなものかどうかを吟味する。[1](外部サイトを新しいタブで開く)

この話は、AIとの制作を考えるときにも手がかりになる。

最初の依頼は、案外ぼんやりしている。「もっと変な感じ」「もう少し気持ちいい音」「きれいだけど、何か違う」。言葉を返し、出てきたものを見て、また言い直す。その間に、自分が何を求めているのかが具体的になる。

僕は、完成した考えを最初から持っているわけではない。対話しながら、自分の望みを発見している。

ただ、そこで出てきた案をどう受け取るかは、さらに考える必要がある。もっともらしい説明でも、作品にすると退屈かもしれない。予想と違う案が、かえって面白いこともある。生み出すことと、吟味すること。その両方が制作の中にある。

ソクラテスとAIを同じものとして扱うつもりはない。ここで重ねたいのは、やり取りを通して、考えている本人の理解も変わっていくという点だ。

可能性が、手で触れられる距離に来る

アリストテレスは『形而上学』で、可能態と現実態を区別した。たとえば、彫像になり得る木と、実際に形づくられた彫像は、同じ状態ではない。[2](外部サイトを新しいタブで開く)

この区別を借りるなら、いま僕が面白いと感じているのは、可能性を具体的な作品へ移す手段が増えたことだ。

「こういう曲があったらいい」と考えているあいだは、まだ聴けない。音として形になって、初めて分かることがある。思い描いた通りなのに、意外と物足りない。逆に、小さな偶然が入ったことで、急に好きになる。

作品になることで、想像は確かめられるものになる。その経験から、次の想像が始まる。

「何でもできるようになった」と言いたくなるけれど、実際には時間も費用もかかるし、道具にも限界がある。僕の実感に近いのは、これまで頭の中に置いていた可能性を、試して確かめられるようになったということだ。

自分の「いい」まで変わっていく

以前、僕は「AI時代に必要なのは、編集力だ」(外部サイトを新しいタブで開く)という記事を書いた。何を残し、何を捨て、何と何をつなぎ、どんな意味として世に出すのか。その判断について考えた文章だった。

今回は、そこからもう一歩進めたい。

選ぶときの基準にしている「自分がいいと思う感覚」も、制作の途中で変わるのではないか。

たとえば、ある曲を、もっと踊れる音にしようとする。いくつか試すうちに、妙に静かな版が気になり始める。そこで、踊らせることより、音が消える瞬間を聴かせたくなる。そうなると、もう最初とは違う作品をつくっている。

これは、制作中に起こり得る一つの例だ。変わったのは音の構成だけではなく、何を面白いと思うか、その判断の方でもある。

この感覚を考えるうえで、ニーチェの「自己克服」は近いところにあると思う。彼の思想では、自己克服や価値の創造が重要な主題となり、芸術から生き方を考える視点も見いだせる。[3](外部サイトを新しいタブで開く)

そこから僕が受け取るのは、自分がいま信じている価値も、問いに開いておくという姿勢だ。

「自分らしい作品」をつくろうとしているのに、その制作によって、自分らしさの輪郭まで動く。僕が言う「自分を超える」には、その意味を込めたい。

色や形を変えたあと、作者の輪郭も動く

フォーヴィスム(外部サイトを新しいタブで開く)では、色を現実の見え方から離し、強い表現として使う実験が行われた。キュビスム(外部サイトを新しいタブで開く)では、形を分解し、複数の視点から組み立てる方法が探られた。

マティス(外部サイトを新しいタブで開く)やピカソ(外部サイトを新しいタブで開く)の作品を見ると、「こう描くものだ」という前提に手を入れること自体が、創作なのだと感じる。

デュシャンのレディメイドは、既製品を選んで作品として提示することで、作者を熟練した手仕事の担い手とする考え方を揺さぶった。[4](外部サイトを新しいタブで開く)

こうした実践を考えると、創作には、自分の手で形をつくることとともに、制作の前提や、作品として扱う範囲を変える働きがある。

AIとの制作でも、その前提が動く。音楽をつくっていた人が、同じ世界の映像を考える。映像からゲームへ進む。僕自身、デザイン、音楽、映像を行き来するうちに、ひとつの職能だけでは説明しにくい制作をするようになった。

その広がりの中で、「僕は何をつくる人なのか」という自己紹介も、少しずつ変わっていく。

リカーシヴィズムという手がかり

この往復を考える言葉として、リカーシヴィズム(Recursivism)がある。

Florentin Kochは、2026年1月に公開した論考で、この語をAI時代の芸術を分析する枠組みとして提案している。焦点は、生成物の変化が、それを生む手順や規則そのものの変更につながることにある。同じ規則の中で結果を何度も変えるだけの反復とは、区別される。[5](外部サイトを新しいタブで開く)

確認した版は査読中のプレプリントであり、ここでは一つの先行提案として参照する。僕が新しく発明した言葉でも、定着した美術運動名として紹介するものでもない。

この言葉を手がかりに、僕は自分の制作の中の循環を考えたい。この記事では、説明のために「再帰的創造主義」と呼んでみる。

素材を渡す。別の可能性に出会う。選ぶ。組み直す。その結果を、次の制作へ戻す。

そのとき、次の素材に加わるのは、できあがった曲や映像だけではない。制作を通して気づいたことや、新しく好きになったものも加わる。選び方が変われば、次にAIへ頼むことも変わる。

自分のSOURCEから作品をつくり、その作品との出会いが、次の自分のSOURCEになる。

ここで述べているのは、作者の判断や発想を含めた、僕なりの制作の捉え方だ。制作を繰り返すだけでAIモデル自体が学習し直す、という技術的な主張ではないし、僕の制作が論文の分類を満たすと検証したわけでもない。

それでも、作品が次の作品を生む仕組みに、作者自身の変化まで含めて考えることには意味があると思う。

「いい」と思った理由を、もう一度聞く

この循環が、いつも望ましい方へ進むとは限らない。

見栄えのよい案を選び続けるうちに、最初に気になっていた違和感を消してしまうこともあり得る。見慣れたものを安心して選んでいるだけかもしれない。

だから僕は、「いいと思った」という反応のあとに、もう一度、その理由を聞いてみたい。

どの瞬間に心が動いたのか。誰に見てほしいのか。きれいに整えることで、何かを失っていないか。その問いから、残すものや直す場所が見えてくる。

そこには、これまで見てきたアートや映画、聴いてきた音楽、街の風景、人との会話が関わっている。制作の外で経験したことも、判断の中へ入ってくる。

作品をつくって自分が変わること自体は、昔からあった。僕にとってのAIの変化は、その往復を、音や映像や言葉など、いくつもの媒体で試せるようになったことにある。

次の僕は、何をつくりたくなるだろう

「自己超越」という言葉は、ときに、自分を追い立てる響きを持つ。もっと速く、もっと多く、昨日より上手に、と。

僕がここで考えたいのは、まだ知らなかった自分の感覚に出会うことだ。

派手な作品をつくったあとで、ごく小さな音を残したくなるかもしれない。映像を重ねた末に、一枚の静止画がいちばんよく伝わると気づくかもしれない。そういう変化も、自分の決めていた範囲を越えることだと思う。

そして、一つの作品を「今日はここまで」と閉じることもできる。完成させて誰かに渡したあと、その人の受け取り方から、また考え始めればいい。

自分がいいと思ったものを、つくれるようになる。

つくったものに触れて、次にいいと思うものが変わる。

その繰り返しの中にいることが、いま、僕は面白い。

つくるたび、僕は僕を超えていく。

次の作品をまだつくっていない僕には、次の僕が何をつくりたくなるのか、まだ分からない。


参考・出典

哲学とAI制作をつなぐ箇所は、これらの文献を手がかりにした筆者の解釈です。「再帰的創造主義」は、この記事での説明のための訳語として使用しています。

続けて読む:AI時代に必要なのは、編集力だ(外部サイトを新しいタブで開く)

作品から読む:マティスの世界を映像と音楽にした「Mimesis Series」(外部サイトを新しいタブで開く)

    NACK notes / PROFILE

    田村 祐大

    Designer / NACK Founder

    岡山県出身、京都在住。京都芸術大学芸術学部卒業。暗号資産・Web3領域のプロダクトデザインに約7年間携わった後、NACKを始動。

    NACK notesでは、映画、YouTube、音楽、車、日々の選択を、自分の経験とアート・デザインの視点から読み直す。専門家として結論を示すのではなく、一人の読み手として考えた過程を記録している。