一人で映画会社になれる時代に、僕に残るもの。

一人で、映画会社みたいなことをしている
YouTubeに動画を一本上げる。映像をつくり、音楽をつくり、タイトルを考える。概要文を整えて、SNSではどう伝えたら見てもらえるかを考える。公開ボタンを押すまでに、いくつもの仕事がある。
その一つひとつをやっていると、ふと思う。僕はいま、一人で映画会社みたいなことをしているんじゃないか。
もちろん、映画会社と同じ規模の制作や運営ができているという話ではない。それでも、企画から制作、宣伝、公開までを自分でつなぐ感覚はある。頭の中にあったものを、誰かが見たり聴いたりできる形にして、世の中へ出す。その一連の流れが、手の届くところにある。
僕は、そのかなりの部分にAIを使っている。音楽も、映像も、告知文も。やりたかったことを形にするための手段が、急に増えた。
楽しい。本当に楽しい。だからこそ、ときどき立ち止まる。これほど多くのことができるようになったとき、僕に残るものって、何なんだろう。
楽しいものが、もう目の前にある
YouTubeを開けば動画があり、Netflixを開けば作品がある。僕には、こうしたサービスが「人が何を楽しむのか」を、とても細かく捉えているように感じられる。実際に人間を完全に理解している、という意味ではない。ただ、次に見たくなるものが、すぐ目の前に現れる。
コロナ禍を経て、少なくとも僕の中では、家にいながら楽しむことの位置づけが変わった。外へ出なければ出会えなかったものが、画面の中から届く。その時間に気持ちを支えてもらうこともある。
僕は、それを否定したくない。好きな動画を見て笑う。音楽を聴いて、少し気分が変わる。それが明日を迎える原動力になるなら、その楽しさには意味がある。
エンターテインメントが、人を楽しませるために積み重ねてきたこと。その成果の一つが、いまの身近さなのかもしれない。
ただ、「僕たちはもう満たされている」と全員のことを言い切ることはできない。楽しめる時間があっても、満たされないものはある。僕自身、画面の中で楽しいものに出会うことと、人と関わって生きることが、同じではないと感じている。
つくれることと、誰かに届くことの間
AIがあることで、僕は見る側から、つくる側へ何度でも戻れる。面白いと思ったものから着想を得て、別の音や映像を試す。「ここは違う」「こっちの方が好きだ」と選び直す。その往復が楽しい。
でも、つくれるようになることと、誰かに届くことは別だった。
作品を完成させたあとに、タイトルを考える。何を説明して、何を説明しすぎない方がいいのか。初めて見る人が、どこから入ってこられるのか。概要文をつくる作業も、僕には作品の外側にある雑務とは思えない。
マティスの世界観を映像と歌にしたのも、そんな考えからだった。アートは難しそうだと思っている人にも、音楽や映像からなら入ってもらえるかもしれない。知識を覚えるより先に、「なんかいいな」と感じてもらえる入口をつくりたかった。
その入口を考えるとき、僕はやっぱりデザイナーなんだと思う。自分が好きなものを、相手が出会える形へ変える。そのために、映像も音楽も言葉も使っている。
便利になったのに、不安もなくならない
同じ技術の時代に、ドローンやロボットの話も目に入ってくる。人の力を広げる技術が、争いにも使われることを考えると、怖くなることがある。数をそろえられる側が、すべてを決めてしまうのではないか。そんな想像までしてしまう。
ただ、僕は政治や軍事の専門家ではない。戦争が機械の数だけで決まるとも、未来がそうなるとも言えない。ここで書いているのは情勢分析ではなく、つくる道具の可能性に喜んでいる自分が、技術の別の使われ方には不安を覚える、ということだ。
そんなとき、「人間には、楽しむことしか残らないのか」と思いかける。でも、それだけでもないはずだ。
誰かを気にかけること。困っている人の話を聞くこと。一緒に時間を過ごすこと。画面の中の面白さとは違う形で、日々を支えているものがある。
エンターテインメントを大切にしたいからこそ、それですべてが埋まるとは言いたくない。作品も、人との付き合いも、どちらも僕の生活の中にあってほしい。
AIにできることが増えたあと、僕は何を選ぶのか
音楽も映像も告知文もAIを使ってつくった。それを並べてみると、「じゃあ僕は何をしたんだろう」と思う瞬間はある。
何に惹かれたのか。どの案を残したのか。何を直して、誰に届けようとしたのか。そこには僕の判断がある。ただ、それを「最後に人間に残された能力」として、急いで囲い込む必要もないと思っている。選ぶことだって、AIに助けてもらっているからだ。
僕がいま考えたいのは、AIにできないことを探し続けるよりも、自分が何に時間を使いたいかということなのかもしれない。
面白いと思う映像をつくりたい。好きな音を聴きたい。誰かの反応を知りたい。そして、ときには制作を止めて、画面の外で過ごしたい。
何かを生み出している時間だけが、僕の時間ではない。作品にならない一日まで、無駄だったことにはしたくない。
まだ完成していない。でも、楽しい
今日は、少し散歩をしたいと思った。京都で暮らしていると、鴨川の風景が思い浮かぶ。画面の色を選ぶ時間から離れて、外の光や、空気の変化を感じたい。次の作品の材料を集めるためでなくてもいい。ただ、その場にいる時間があっていい。
まだ完成していない動画がある。「やるかと思ったら、やらない」。そんな拍子抜けする瞬間をつくるのが、僕はめちゃくちゃ楽しい。頭では見えているのに、まだ思うようにはできていない。
AIがあるのに、まだできていない。そこには、いまの僕が「もう少しこうしたい」と思っている余地がある。ただ、今日中に埋めなくてもいい。休んだあと、また触りたくなったら続きをつくればいい。
僕はデザイナーだ。その実感は、何でも一人でできるから生まれるわけではない。好きなものと人の間に、どんな出会いをつくれるだろうと考えてしまう。その考え方が、生活のあちこちにある。
AIでできることは増えた。僕は、その全部を今日やらなくていい。
面白いものをつくる日も、誰かと話す日も、ただ散歩する日もある。そんな毎日の中で、また「これをつくりたい」と思う。いまは、その楽しさを大切にしていたい。
この記事について
AIを使った制作と動画公開を通じた、田村祐大個人の実感を綴った文章です。コロナ禍以降の変化やエンターテインメントについての記述は個人の見方であり、社会全体への調査結果を示すものではありません。技術と戦争への言及も、専門的な予測ではなく、不安として区別しています。
制作した作品:色は、日常を変えられるか。|Henri Matisse – Mimesis Series(外部サイトを新しいタブで開く)
